モントリオール占領の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 18:42 UTC 版)
「カナダ侵攻作戦」の記事における「モントリオール占領の開始」の解説
モントゴメリーは部隊を率いて北に進み、11月8日にセントローレンス川にあるセントポール島を占領し、翌日には対岸のポイントセントチャールズに渉り、解放者として迎えられた。11月13日、取り立てて抵抗を受けることもなくモントリオールが陥落した。ガイ・カールトンはモントリオール市が守れないと判断し、さらにセントジョンズ陥落の報せにかなりの数の民兵が脱走したこともあってモントリオールから撤退した。大陸軍が市の下流側で川を渡って上陸し、風のためにカールトンの戦隊が直ぐに出発できなかったので、危うく捕まりそうになった。この戦隊がソレルの町に近付いたとき、白旗を掲げた1隻のボートが現れた。そのボートは降伏勧告の書状を運んできており、カールトンに降伏するかさもなければ下流の砲台でその船団を破壊すると伝えてきた。カールトンは実際にそのような砲台があるかはっきりとは分からなかったので、もし降伏しなければならなくなったときのために火薬や砲弾を捨てさせた後で、船団を密かに発進させる道を選んだ(実際に砲台はあったが、その主張していたほど強力ではなかった)。11月19日、イギリス戦隊は降伏し、カールトンは平民の服装に身を窶してケベック市に向かって逃げた。捕獲した船にはイギリス軍が捉えていた捕虜も乗っていた。その中にマサチューセッツ生まれでセントジョンズ砦近くに土地を持っていた国外居住者モーゼス・ヘイズンがおり、イギリス軍に粗略に取り扱われたので、イギリスに反抗していた。ヘイズンはモントゴメリーの軍隊に加わったが、元々フレンチ・インディアン戦争での戦闘体験があり、その後独立戦争を通じて第2カナダ人連隊を率いることになる。 モントゴメリーはモントリオールからケベック市に向かうに前に市民にメッセージを発し、大陸会議はケベックが仲間に入り、大陸会議に送る代表を選出するために植民地会議を開く目的でアメリカへの同調者との討議に入ることを望んでいることを伝えた。またスカイラー将軍には、外交目的で大陸会議の代表団を派遣してくれるよう要請する手紙を送った。 モントゴメリー軍の大半はモントリオール占領後に徴兵期間が切れて隊を離れた。モントゴメリーは捕獲した船に約300名の兵士を乗せて11月28日にケベック市に出発し、モントリオール市にはデイビッド・ウースター将軍の指揮で約200名を残した。モントゴメリーはケベックに向かう途中で、ジェイムズ・リビングストンが新たに徴募した第1カナダ人連隊約200名を部隊に加えた。
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