サセックスでの動乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/22 14:36 UTC 版)
キャドワラの名が最初に登場するのは『聖ウィルフリド伝』においてであり、ここでは彼はチルターンとアンドレッドの森で亡命の身となっている貴人として描かれている。このように7世紀の七王国時代では王族が王位にのぼる前に亡命生活を送る事はさして珍しい事ではなかった。別の例としてはノーサンブリア王国のオスワルドの亡命生活が挙げられる。アングロサクソン年代記では685年の項目にキャドワラが「王位を目論み始めた」と書かれている 。亡命の身でありながら彼は軍を召集する事に成功しサセックス王のエゼルワルホを殺害、しかしすぐに彼は王のエアルドルマンであったベルスムとアンドフンにより追放されてしまう。その後彼らエアルドルマンたちはサセックスを王たちとして統治したものと考えられている。 この当時、ワイト島とメオン渓谷、現在のハンプシャー州東部にあるこの地域はマーシア王ウルフヘレの圧力のもとサセックス王エゼルワルホの手に渡っていた。年代記の記述では661年、しかしベーダはこの動乱を680年代に行われた聖ウィルフリドの南サクソン人への伝道時期よりも「遠い過去でない時期」と記し、年代記の記述よりも後である事を示唆している。仮にこの動乱が680年の初頭に行われたのであれば、エゼルワルホ殺害の張本人キャドワラの動機がマーシア王国の圧力に対する反応によるものである事が説明できる。 別の視点でこの時代の政治的軍事的状況を見てみると、660年代にドルチェスター司教座が西サクソンから分離している事が挙げられる。新しい司教座はウィンチェスターに設けられ、これは南サクソンとの境界に極めて近かった。ベーダが説明するには当時の王チェンワルホはドルチェスター司教が説くフランク様式の説法に辟易していたからとしているが、実質はこの分離はむしろマーシア王国の侵略が原因で西サクソンが他の地域での侵攻を余儀なくされたためと考えられている。キャドワラの軍事行動もそのように北部よりも西部、南部、東部へとなっている 。キャドワラの軍事行動の成功は、従来の「ゲウィセ」から「西サクソン」へと名称で同時代の資料に綴られる理由になったものと考えられている。この時代から西サクソンは他のアングロサクソン人を支配下に置く事になる。
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