兵器の改良
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 15:00 UTC 版)
核弾頭を装備したオネスト・ジョンのようなロケットは、1953年に初めて実戦配備されたのだが、それらは比較的短距離 (最大25km) の射程しか持たず、威力もファットマンの倍程度に限られた地対地ミサイルであった。そのため、これらのミサイルは限られた軍事的状況で使われることだけを想定されていた。つまり例を挙げると、アメリカ合衆国国内に配備された短距離ミサイルは、モスクワに対して即時攻撃するという脅しのためには使えないわけである。そのため、これらのミサイルは"戦術的な"、つまり規模の小さい軍事的状況での使い方しかできないのである。 "戦略的な"目的— 敵国全体への脅威となる兵器—のためには、当時長距離を航続可能な戦略爆撃機によってしか、相手国内に投下することはできなかった。米国では、1946年に戦略航空軍団が創設され、命令があったときにすぐにモスクワを爆撃できるように24時間常に航空機を飛ばし続けた。戦略航空軍団の司令官にはカーチス・ルメイ将軍 (日本への焼夷弾による大空襲の発案で知られる) があたった。 核兵器とその運搬技術の開発は、それまでの軍事思想とは違った核戦略という新たな理論の発展を促した。核戦争が起こったときの被害があまりにも甚大であると考えられたため、人類の歴史が始まって以来初めて、もはや今後戦争をすることは不可能かもしれないと考えられるようになった。冷戦のはじめの数年にソ連に向けたメッセージで、当時の合衆国大統領ドワイト・アイゼンハワーは大量報復戦略ドクトリン考えを明らかにした。それによると、もしソビエト赤軍がポツダム会議で保証された東側諸国以外のヨーロッパ諸国へ侵略しようとした際には、アメリカはソ連軍 (とおそらくソ連のリーダーも) に対して核兵器を使うだろうと宣言していた。 即応テクノロジー (ミサイルや長距離爆撃機) の発達によって、これらの政策は変化していった。もし、ソ連も核兵器を所持しており、かつ、同様の大量報復政策を取っていたとすると、アメリカによる核先制攻撃や通常兵器に対する核による報復は、必然的にソ連による報復を招くことになる。この認識が、後に相互確証破壊 (Mutually Assured Destruction:MAD) として知られるようになる理論が軍部やゲーム理論家やランド研究所といったところで研究されるきっかけとなった。 MAD理論では、起こりうる核戦争を初期攻撃と第二攻撃の二段階に分けていた。初期攻撃は、核保有国A国による別の核保有国B国への、核兵器による最初の攻撃である。もしA国が初期攻撃の段階で、B国に対して核報復が不可能なほどのダメージを与えることができなければ、B国はA国に対して核兵器による第二攻撃を行うだろう。A,B国のどちらがアメリカかソ連であったとしても、戦争の結果、もはや両国が国としての体を成しえないほどにまで完全に破壊されてしまうだろうと考えられた。 ゲーム理論によれば、核戦争を始めることは破滅的な行為なので、理性を持った国の指導者は、わざわざ核戦争に突入するようなことをしないだろうと考えられる。しかしながら、もしある国が初期攻撃で敵国の報復能力を完全に破壊することができるのであれば、そのとき両国のパワーバランスは崩れ、核戦争は安全に遂行できることになってしまう。 MAD戦略は、人間の2つの相対する思考様式に基づいていると考えられる: 冷静な論理と、感情的な恐怖である。MADの"核抑止 (nuclear deterrence) "として知られるフレーズは、フランスでは"諫止 (dissuasion) "、ロシアでは"脅迫 (terrorization) "を意味する言葉に翻訳されて紹介された。イギリスの首相のウィンストン・チャーチルは、核戦争についての明白なパラドックスを称して「物事が悪くなればなるほど、もっと良くなる ("the worse things get, the better they are")」と言った。つまり相互破壊の危機が大きくなればなるほど、それを使用することができないために、世界はより安全になるという訳である。 核保有国は相互確証破壊の思想によって、さまざまな技術的・政治的要求を満たす必要に迫られた。たとえば、敵国は常に、"初期攻撃能力 (first strike capability) "を得ようとしているために、我々はそれを何としてでも防がなければならない、とさかんに議論された。この問題はアメリカでは50年代に、ミサイルギャップや爆撃機ギャップに関する議論として知られている。(それらの"ギャップ"は政治家によって作り出されたものだったのだが、当時はそれは分からなかったのである。) 敵国に初期攻撃能力を与えないように、アメリカ、ソ連両国は数千発もの核兵器を生産した。それらは、相手の国民と民間・軍事インフラ全てを破壊してもなおあり余るほどの量であった。 これらの政策と核戦略は、スタンリー・キューブリックの1964年の映画、『博士の異常な愛情』で風刺された。その映画ではソ連は、アメリカの初期攻撃能力を無能化するために皆殺し装置 (en:Doomsday machine) —核爆発を検知すると巨大水爆が爆発し、死の灰で世界中を埋めつくし世界を破滅させる装置—を開発する。その後、気の狂ったアメリカの将軍がソ連への核攻撃を命令、皆殺し装置が発動し、世界は滅ぶ、というプロットである。 核政策は初期の弾道ミサイル早期警戒システムの開発も促進した。伝統的な戦争は、どんなに速くても、せいぜいが1日か1週を単位として動いていた。長距離爆撃機により、攻撃の命令から実際の攻撃までの間隔は、1時間単位にまで縮まった。さらに、ロケットにより、その間隔は1分を単位とするまでになった。伝統的な指揮統制体制では、核攻撃への素早い対応ができないと考えられたため、敵の攻撃の探知と直接の即時の反応ができるような初期のコンピュータの開発も促された。 アメリカでは、半自動式防空管制組織 (SAGE) の開発に莫大な資金が使用された。それは遠隔地のレーダーからの情報を使い、敵爆撃機を追跡・迎撃するシステムである。SAGEは、世界初のリアルタイム処理、多重化システムであり、ディスプレイを備えた近代的な汎用コンピュータであった。
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