核抑止政策と瀬戸際外交
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 15:00 UTC 版)
「核兵器の歴史」の記事における「核抑止政策と瀬戸際外交」の解説
詳細は「核実験」、「核戦略」、および「核戦争」を参照 1950年代から1960年代初頭にかけて、米ソ両国はお互いに相手が核戦力の優位を得ることのないように、数多くの原爆・水爆を開発していった。この競争は、技術的にも政策的にも、さまざまな形をとって冷戦期間中を通じて続けられた。 広島と長崎に投下された最初の原爆は、巨大なカスタムメイドの爆弾であり、装備と配備には高度な訓練を受けた専門職員が必要とされた。それらの原爆は、大型爆撃機—当時ではB-29—によってしか投下できなかったし、一機につき一発の原爆しか装備できなかった。 初期の水爆も、同様に巨大で複雑な爆弾であった。一機の飛行機に対した一発の核爆弾の重量比率は、伝統的な非核兵器と比べると途方もなく大きかった。しかし、他の核保有国に対峙する場合にはこれは深刻な危険性があると考えられた。戦後直後の数年間に、アメリカは一般的な兵士が使えるような、ノーベル賞物理学者ではなくても扱えるような核兵器の開発を進めた。そして、1950年代には、核兵器を改善するための一連の核実験が繰り返された。 1951年に始まった、ネバダ州の砂漠の中にあるネバダ核実験場がアメリカの全ての核実験の主要な実験場となった。(ソ連ではセミパラチンスク核実験場が似た役割を果した。) 核実験は、大きく2つのカテゴリに分けられた。兵器関係 ("weapons related") (新兵器が動作するかの検証、または新兵器が正確にはどのように動作するかの観察) と兵器効果 ("weapons effects") (兵器が様々な条件の下でどのように振る舞うか、軍組織が核兵器に晒されたときどのように行動するかの観察) である。 初期の核実験はほとんど全て大気中 (地上) か水中 (マーシャル諸島での実験のように) で行われた。核実験は、国力と技術力の両方の力を示すしるしとして使われたが、このころ実験の安全性についての疑問も起こった。核実験は放射性降下物を大気中にまき散らすからである。(1954年のキャッスル作戦の事件で、これは劇的に証明された。) 核実験は技術的な開発力のしるしとして考えられてきたが (使用可能な核兵器を核実験することなしに設計できる能力があるとは考えにくい)、核開発競争の中止のための見返りとして、実験の中止がたびたび要請されてきた。多くの優秀な科学者と政治家は、核実験の中止を訴えた。1958年、アメリカ、ソ連そしてイギリス連邦 (新規の核保有国) は政治問題と健康問題への配慮から、共同で宣言を発表し核実験の一時的な停止 (モラトリアム) を宣言した。しかし1960年に新たにフランスが核兵器を開発、1961年になってソ連が停止を撤回し核実験を再開すると、米ソ両国はこれまで以上の頻度で核実験を繰り返すようになった。 政治力の誇示のために、1961年10月にソ連は史上最大の水爆、ツァーリ・ボンバの実験を実施している。ツァーリ・ボンバは、最大で100Mtの出力を想定されていたが、半分程度にまで出力を下げて実験が行われた。これはあまりにも巨大すぎるために実用兵器としては不適当なものであったが、100km先でも人体に最も酷い火傷を起こすことができるほどの熱を放出したという。またその稚拙な設計のために、1945年からこの時までに全世界で放出された放射性降下物の4分の1がこのときに放出されたという。 1963年、このときの4カ国の核兵器保有国と、それ以外の多くの非核国は部分的核実験禁止条約に調印し、大気中・水中・大気圏外での核実験を禁止した。しかし、この条約は地下核実験を禁止していなかったため、その後も核実験は続けられることになった。 60年代に入ると、多くの核実験は比較的穏やかな (つまり、出力の低い) ものが多くなり、純粋に技術的目的の"実験"というよりは、政治力の暗示目的での実験もなされた。そして、兵器の改良は2つの形を取るようになっていった。つまりは、より強力で効率的な核の開発と、核兵器の小型化の2つである。 核兵器が小さければ、爆撃機はより多くの核爆弾を運搬することができる。それはつまり、相手がどれほど厳しい防空体制を敷こうとも、核攻撃が脅威となるということを意味する。また、1950年代から60年代にかけて近代的なロケットが多く開発されたが、小さな核兵器はロケットで使用しやすいということも意味する。アメリカ合衆国は、戦後弾道ミサイルの開発に尽力した。それらの多くは、第二次大戦中にナチスが開発したV-2のようなロケット技術を鹵獲したものから、またはヴェルナー・フォン・ブラウンのようにドイツからアメリカに亡命した技術者の協力のもとで研究が進められた。アメリカのペーパークリップ作戦によって、彼らの多くが戦争末期にアメリカに渡っていたためである。
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