交渉と余波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 14:16 UTC 版)
「国際連合安全保障理事会決議39」の記事における「交渉と余波」の解説
この決議は、理事会の議長国であるベルギーが提出したもので、カシミール地方の紛争処理のために国連に派遣されたフィリップ・ノエル・ベイカー英連邦関係担当閣僚を団長とする英国特別代表団の影響が大きかった。ノエル・ベイカーは「ヴァン・ランゲンホーヴ(Van Langenhove)が私たちに大きく導かれているという事実は知られていない...そして、私たちはそれが知られないようにあらゆる予防措置をとっている。」と主張している。 決議は、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国とソビエト連邦が棄権したが、9票の賛成で可決された。 また、英国代表団は、国連の支援の下でカシミール地方に公平な行政を行うことを受け入れるよう、インドを説得しようとした。政権は「中立(neutral)」な議長が率い、カシミール地方は国連が任命した中立な司令官の下で共同軍事占領されることになっていた。初め米国はこの遠大な提案を支持しなかった。 英国代表団は、国連委員会を安全保障理事会のもとに従属させ、和解案策定の実際の作業はニューヨークで行うことを意図していた。そのため、事態が急を要するものであったにもかかわらず、1948年4月21日に安保理で国際連合安全保障理事会決議47が無投票で可決されるまで、実際には委員会の設立に向けた動きはなかった。 委員会が結成され、インド亜大陸に到着するまでには、さらに11週間が経過していた。後に国連外交官のジョセフ・コーベル(Josef Korbel)は、国連委員会の結成が遅れたことを批判する言葉を残している。冬の間、戦闘は小さな小競り合いになっていた。コーベルは、夏になって戦闘が再開される前に委員会が到着したことで、その効果が薄れたのではないかと考えている。委員会が動き出した時には、政治的・軍事的状況が1948年1月から4月までのものとは全く異なっていた。 遅延の要因は、1948年4月30日までパキスタンが先述の国連委員会の代表を指名しなかったことであると後に判明した。
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