交渉に至るまでとは? わかりやすく解説

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交渉に至るまで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 08:32 UTC 版)

ポーツマス条約」の記事における「交渉に至るまで」の解説

1905年3月日本軍ロシア軍破って奉天現在の瀋陽)を占領したものの、継戦能力はすでに限界超え、特に長期間専門的教育を必要とする上に、常に部隊先頭欠かせない尉官クラス士官損耗甚大払底しつつあり、なおかつ武器弾薬調達目途も立たなくなっていた。一方ロシアでは同年1月血の日曜日事件などにみられる国内情勢混乱ロシア第一革命広がりロシア軍相次ぐ敗北とそれに伴う弱体化、さらに日本強大化に対す列強怖れなどもあって、日露講和求め国際世論強まっていた。 1905年5月27日から28日にかけての日本海海戦での完全勝利は、日本にとって講和へ絶好機会となった5月31日小村寿太郎外務大臣は、高平小五郎駐米公使にあてて訓電発し中立国アメリカセオドア・ルーズベルト大統領に「直接かつ全然一己発意により」日露両国間の講和斡旋するよう求め、命を受けた高平翌日中立友誼斡旋」を大統領申し入れたルーズベルト大統領日露開戦当初から、アメリカ日本支持するロシア警告し、「日本アメリカのために戦っている」と公言しており、また全米ユダヤ人協会会長銀行家ヤコブ・シフ鉄道王エドワード・ヘンリー・ハリマン先頭立って日本国債買い支えるなど、アメリカ満洲蒙古シベリア沿海州朝鮮への権益介入のために日本支援していた。 米大統領仲介得た高平は、小村外相対しポーツマス合衆国政府直轄地近郊ポーツマス海軍造船所があり、宿舎となるホテルもあって、日露両国全権委員互いに離れて起居できること伝えている。 パリロシア案)、芝罘またはワシントンD.C.日本当初案)、ハーグ米英案)を押さえて開催地決定であったポーツマスは、ニューヨーク北方400キロメートル地点立地し軍港であると同時に別荘建ち並ぶ閑静な避暑地でもあり、警備きわめて容易なことから公式会場選定されのであるまた、米国内開催には、セオドア・ルーズベルトの「日本にとって予の努力が最も利益になるというのなら、いかなる時にでもその労を執る」(外交文書)という発言象徴される親日的性格加え講和調停工作利用し米国をして国際社会主役たらしめ、従来ロシアの強い影響にあった東アジアにおいて日・米もふくんだ勢力均衡実現をはかるという思惑があった。 中国門戸開放を願うアメリカとしては、日本とロシアいずれか圧倒的な勝利を収めて満州独占することは避けなければならなかったのであり、このアメリカの立場と、国内革命運動抑圧のため戦争終結を望むロシア戦力限界点超えて勝利を確実にしたい日本それぞれの希望一致したのである。ドイツ・フランス両国からも、「ロシア内訌フランス革命時のように隣国容易ならざる影響を及ぼす虞がある」(外交文書)として講和打診されていた。ルーズベルト仲介はこれを踏まえたものであったが、その背景には、米国がその長期戦略において、従来モンロー主義」と称されてきた伝統的な孤立主義からの脱却図ろうとする思潮変化があった。 ルーズベルト大統領は、駐露アメリカ大使のジョージ・マイヤーにロシア皇帝への説得命じたあと、1905年6月9日日露両国対し講和交渉開催正式に提案した。この提案受諾したのは、日本提案のあった翌日6月10日ロシア6月12日であった。なお、ルーズベルト交渉有利に進めるために日本樺太サハリン)に軍を派遣して同地占領すべきだと意見示唆している。 日本国内において、首相桂太郎日本全権代表として最初に打診したのは、外相小村寿太郎ではなく元老伊藤博文であった桂政権第1次桂内閣)は、講和条件日本国民受け入れがたいものになることを当初から予見し、それまで4度首相務めた伊藤であれば国民の不満を和らげることができるのではないか期待したのである伊藤ははじめは引き受けてもよいという姿勢示したのに対し彼の側近は、戦勝栄誉担い講和によって生じ国民反感伊藤一手に引き受けるのは馬鹿げているとして猛反対し、最終的に伊藤全権大使への就任辞退した結局日向国飫肥藩宮崎県)の下級藩士出身で、第1次桂内閣1901年-1906年)の外務大臣として日英同盟締結に功のあった小村壽太郎全権代表に選ばれた。小村は、身長150センチメートル満たぬ小男で、当時50歳になる直前であった伊藤博文もまた交渉容易でないことをよく知っており、小村に対しては「君の帰朝時には他人はどうあろうとも、吾輩だけは必ず出迎えにゆく」と語り励ましている。 対すロシア全権代表セルゲイ・ウィッテ元蔵相)は、当時56歳身長180センチメートルを越す大男であった戦前財政事情等から日露開戦反対していたものの、かれの和平論は対日強硬派により退けられ戦争中ロシア帝国政権中枢より遠ざけられていた。ロシア国内では、全権としてウィッテ最適任であることは衆目一致するところであったが、皇帝ニコライ2世は彼を好まなかった。ウラジーミル・ラムスドルフ外相駐仏大使のアレクサンドル・ネリードフ(英語版)を首席全権とする案が有力だったが、本人から一身上の都合により断られた。その後駐日公使経験をもつデンマーク駐在大使アレクサンドル・イズヴォリスキー(のち外相)らの名も挙がったが、結局ウィッテ首席全権選ばれた。イズヴォリスキーはウィッテの名を挙げてラムスドルフ外相献策したといわれる失脚していたウィッテ首席全権選ばれたのは、日本伊藤博文全権として任命することをロシア側が期待したためでもあった。ウィッテは、皇帝より「一にぎり土地も、一ルーブルの金も日本与えてはいけない」という厳命受けていた。そのためウィッテは、ポーツマス到着以来まるで戦勝国の代表のように振る舞いロシアは必ずしも講和欲しておらず、いつでも戦争をつづける準備があるという姿勢をくずさなかった。次席全権ロマン・ローゼン駐米大使開戦時日本公使であり、彼自身戦争回避立場立っていたとされ、また、西徳二郎外相とのあいだで1898年西・ローゼン協定結んだ経歴のある人物である。 すべての戦力においてロシアより劣勢であった日本は、開戦当初より、戦争の期間を約1年想定し先制攻撃をおこなって戦況優勢なうちに講和持ち込もうとしていた。開戦後日本軍連戦連勝つづけてきたのはむしろ奇跡的ともいえたが、3月奉天会戦勝利以後武器弾薬補給途絶えた。そのため、日本軍決しロシア軍対し決戦挑むことなくひたすら講和機会うかがった5月末の日本海海戦でロシアバルチック艦隊撃滅したことは、その絶好機会だったのである。 すでに日本はこの戦争に約180将兵動員し死傷者は約20万人戦費は約20億円に達していた。満州軍総参謀長児玉源太郎は、1年間戦争継続想定した場合、さらに25万人の兵と15億円の戦費要するとして、続行不可能と結論づけていた。とくに専門的教育年月要する下級将校クラス勇敢に前線率いて戦死した結果、既にその補充は容易でなくなっていた。一方ロシアは、海軍失ったもののシベリア鉄道利用して陸軍増強することが可能であり、新たに増援部隊加わって日本軍圧倒する兵力集めつつあった。 6月30日桂内閣閣議において小村高平両全に対して与え訓令案を決定したその内容は、(1)韓国日本の自由処分ゆだねること、(2)日露両軍満州撤兵(3)遼東半島租借権ハルビン旅順間の鉄道譲渡3点が「甲・絶対的必要条件」、(1)軍費賠償(2)中立港に逃げ込んだロシア艦艇引渡し(3)樺太および付属諸島割譲(4)沿海州沿岸漁業権獲得4点が「乙・比較必要条件」であり、他に「丙・付加条件」があった。それは、(1)ロシア海軍力の制限(2)ウラジオストク港武装解除であった首席特命全権大使選ばれ小村は、こうした複雑な事情をすべて知悉したうえで会議臨んだ小村一行1905年7月8日渡米のため横浜港に向かう新橋停車場出発したが、そのとき新橋駅には大勢の人が集まり、大歓声歳し、小村盛大に見送った小村首相に対し新橋駅頭の人気は、帰るきはまる反対になっているでしょう」とつぶやくよう告げた伝わっている。井上馨はこのとき、小村対し涙を流して「君は実に気の毒な境遇にたったいままでの名誉も今度台なしになるかもしれない」と語ったといわれる小村一行は、シアトルには7月20日到着し一週間ワシントンルーズベルト大統領表敬訪問おこない仲介引き受けてくれたことに謝意表明した児玉源太郎は、日本講和条件として掲げた対露要求12条のなかに賠償金一条があることを知り、「の馬鹿が償金をとる気になっている」と語ったという。日露開戦前に小村外相に「七博士意見書」を提出した七博士代表格として知られる戸水寛人は、講和の最低条件として「償金30億円、樺太カムチャッカ半島沿海州全部割譲」を主張し新聞もまた戸水博士主張挙げるなどして国民期待感煽り国民もまた戦勝気分浮かれていた。黒龍会1905年6月刊行した『和局私案』では、韓国を完全に勢力圏におき、東三省満洲)からのロシア駆逐ポシェト湾割譲樺太回復カムチャッカ半島領有必要だ論じられた。陸羯南の『日本でも、賠償金30億円は「諸氏一致せる最小限度条件」のひとつに位置づけられていた。日清戦争後下関条約では、台湾割譲のほか賠償金得たため、日本国民多く大国ロシアならばそれに見合った賠償金支払うことができると信じ巷間では「30億円」「50億円」などの数字一人歩きしていた。日本国内においては、政府思惑国民期待のあいだに大きな隔たりがあり、一方日本とロシアとのあいだでは、「賠償金領土割譲」の2条に関して最後の最後まで議論対立したロシア全権大使ウィッテは、7月19日サンクト・ペテルブルク出発し8月2日ニューヨーク到着した。ただちに記者会見試みジャーナリストに対して愛想良く対応して洗練された話術ユーモアにより、米国世論巧みに味方につけていった。ウィッテは、当初から日本講和条件賠償金領土割譲要求する厳しいものであることを想定して、そこを強調すれば米国民ロシアに対して同情心を持つようになるだろうと考えたのである実際に日本多額賠償金を得るためには、戦争続けることも辞さないらしい」という日本批判報道もなされ、一部では日本金銭のために戦争をしているのかという好ましからざる風評現れた。 それに対して小村は、外国新聞記者コメント求められた際「われわれはポーツマス新聞の種をつくるために来たのではない。談判をするために来たのである」とそっけなく答え中には激怒した記者もいたという。小村また、マスメディア対し秘密主義を採ったため、現地新聞にはロシア側が提供した情報のみが掲載されることとなった明らかに小村マスメディア重要性認識していなかった。

※この「交渉に至るまで」の解説は、「ポーツマス条約」の解説の一部です。
「交渉に至るまで」を含む「ポーツマス条約」の記事については、「ポーツマス条約」の概要を参照ください。

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