封鎖突破船フィンガル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/06 04:27 UTC 版)
「アトランタ (装甲艦)」の記事における「封鎖突破船フィンガル」の解説
フィンガルはスコットランドのグラスゴーにおいて、ジェームズ・アンド・ジョージ・トンプソンの設計、クライドバンク鉄工造船所で建造された商船で、1861年の初めに完成した。後にアトランタの見習い士官となったダブニー・スケールズによると、鉄製船体の2本マストで、全長は189フィート (57.6 m)、全幅は25フィート (7.6 m)であった。喫水は12フィート (3.7 m)、船底から主甲板までの高さは 15フィート (4.6 m)であった。スケールズは重量を約 700 (bmトン)と見積もっている。フィンガルは煙管型、 ボイラーは1基、垂直シリンダーの船舶用蒸気機関2基を備え、1軸スクリューにより13ノットの速度を出すことができた。シリンダーの直径は39インチ (991 mm)、ストロークは30インチ (762 mm)であった。 フィンガルはしばらくの間、ハッチンソン・ウェストハイランド・サービス社の船としてグラスゴーとスコットランドの他の都市を行き来していたが、1861年9月にイギリスにおける南軍のエージェントであったジェームズ・ブロック(James Dunwoody Bulloch)が購入した。目的は軍需品や補給物質を南軍に届けることであったが、それを隠すためにブロックはイギリス人の船長を雇い、行き先をバミューダとバハマのナッソーと偽った。貨物は10月始めにグリーンノックで積み込まれたが、ブロックと他の乗客はそこでは乗船せず、ウェールズのホリーヘッドで乗り込んだ。10月14日から15日にかけての夜中、フィンガルはホリーヘッドの堤防からゆっくりと出て行ったが、そこに無灯で係留されていたオーストリアのブリッグ・ジカルディ(Siccardi)に衝突、これを沈めてしまった。ブロックは彼の経理エージェントに手紙を書き、「ホリーヘッドに長期間留まることはできないため、オーストリア船のオーナーとの賠償交渉を行うよう」指示している。11月2日にはバーミュダに到着した。バーミューダ出航後の11月8日、ブロックはフィンガルの目的地はサバンナであること、従えないものはナッソーまで送り届けることを船員に伝えた。これに対して、乗員全員が北部海軍の封鎖を突破してサバンナに向かうことに同意した。幸運なことに深い霧が出ており、封鎖艦に見つかることなく、11月12日に無事サバンナに入港した。 フィンガルが貨物を降ろしている間に、ブロックはアメリカ連合国の首都であるリッチモンドに出向き、海軍長官のスティーヴン・マロリーと会談した。ブロックは海軍の口座で綿花を購入し、これをヨーロッパで売却、その利益で船舶と装備品を購入することを提案し、マロリーはこれを承認した。ブロックは11月23日にサバンナに戻ったが、貨物と石炭の積み込みにさらに1ヶ月を要した。12月23日、封鎖突破を試みたが、サバンナ川河口のティビー島(Tybee Island)を占領した北部海軍がサバンナからの航路を支配しており、それはほとんど不可能であることが分かった。ブロックは1862年1月後半に封鎖突破の見込みがないことをマロリーに報告した。マロリーはフィンガルを他の士官の指揮に委ね、他の方法を見つけてヨーロッパに戻るようにブロックに指示した。
※この「封鎖突破船フィンガル」の解説は、「アトランタ (装甲艦)」の解説の一部です。
「封鎖突破船フィンガル」を含む「アトランタ (装甲艦)」の記事については、「アトランタ (装甲艦)」の概要を参照ください。
- 封鎖突破船フィンガルのページへのリンク