封鎖開始
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1948年になると、分割占領された首都の全体をどこが支配するのかを巡って対立が起こった。さらにソ連はドイツとの戦争で甚大な被害が出ていたため取れるものは全てとるという方針をとったことから、早期復興を目指す西側3か国と対立した(当初はフランスもドイツに早期の賠償を課す方針だったが、ソ連への対抗上米英と同調せざるを得なくなった)。そのような対立の中、ソ連は西ベルリンへの交通制限を西側へ通達した。 4月1日に、ソ連軍政当局は西ベルリンへ向かう人員や貨物について検問を強行し、西ベルリンへの物資搬入にも制限がかけられた。さらに、5月にソ連が6月24日に東側領域において通貨改革を実施することを宣言すると、すかさず西側も6月20日より西側領域でも通貨改革を実施すると公表した。この結果、マーシャルプランに保障される西側通貨(マルクB、ドイツマルク)が力を持つようになり、東側の通貨改革は失敗することとなった。 反発を強めたソ連側は、6月24日より西ベルリンへの陸路の完全封鎖を実施。西ドイツとの間を結んでいた4本の鉄道は閉鎖され、東ベルリンとの間を結んでいた地下鉄も運休し、エルベ川と運河を経由した船舶輸送も停止され、西ドイツとの間を結んでいた4本のアウトバーンも閉鎖され、国境の検問所にはバリケードが設置されて物流を完全に停止させた。東側占領地域からの西ベルリンへの電力供給も停止された。さらに政治宣伝を行い、西ベルリン市民の取り込みを図った。ソ連側は、物資不足に反発した西ベルリン市民により暴動やストライキが発生し、やがて社会主義革命が発生することを期待していた。そして、西側に西ベルリンの支配を放棄させることを狙っていた。 この状況でもソ連側は、西側占領地域及び西ドイツ国内から西ベルリンまでの航空路については封鎖しなかった。これは1946年2月の取り決めにより、西側からベルリンまでの3本の空路、通称「ベルリン回廊」は、西側諸国による自由な利用が認められていた上に、西ベルリンに居住する市民は200万人に上り、その生活を支えられるだけの物資を空輸だけで運べるとは到底考えられなかったことと、ソ連としても西側と全面的な対決に陥ることは避けたかったということが、空路の封鎖をしなかった理由として挙げられる。
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封鎖開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 18:11 UTC 版)
この日午前10時に海上封鎖が開始され、アメリカは陸海軍および海兵隊、沿岸警備隊などを総動員した体制を取り、航空機、艦船、潜水艦などで海上封鎖線近辺の警備を強化したほか、ソ連の貨物船が海上封鎖を突破しアメリカ軍がこれを撃沈した場合、即座に全面戦争となる可能性もあったことから、日本や西ドイツ、トルコをはじめとする海外の基地においても総動員体制をかけ、アメリカ軍人のみならず西ドイツ軍なども休暇の兵士を呼び戻した。 この日の朝エクスコムの会議では航空偵察写真の分析結果からR-12、R-14(英語版)両方のミサイル基地建設が進んでいることが分かった。封鎖線にソビエトの船舶が近づいており、会議の雰囲気は緊迫したものだった。しかしフルシチョフは実際には慎重であった。これらの船舶は本国からの指示によりアメリカ海軍により通達された海上封鎖線を突破することはせず、海上封鎖線手前でUターンして引き返した。ソ連の貨物船は、もし公海上での臨検を受け入れた場合はアメリカの「恫喝」に屈服する形になるだけでなく、アメリカ側に様々な軍事機密が流れてしまう恐れがあることから臨検を受けることをよしとせず、また海上封鎖を突破し攻撃を受けた場合は即座に報復合戦となり、さらに全面核戦争になる可能性が高いことから、回避行動に出たのである。 アメリカ軍が実際に初めての臨検を行ったのは26日(金)の午前である。
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