戦闘までの経緯
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「第二次木津川口の戦い」の記事における「戦闘までの経緯」の解説
天正4年、第一次木津川口の戦いの大敗の報を受けた織田信長は、九鬼嘉隆の進言をいれ、鉄の装甲を備えた大安宅船の建造を命じた。 天正6年6月、数多の大鉄砲と大砲3基を備えて大安宅船7隻(九鬼嘉隆の黒い船6隻と滝川一益の白い船1隻)が伊勢湾各所で竣工。 6月26日、伊勢湾から大坂表へ向けて回航。途中熊野灘で雑賀衆との交戦あるも大鉄砲による斉射をもって寄り付かなくなったとあり。 7月17日、堺港に寄港すると多くの見物人を驚かせた。 7月18日、大坂表に乗り出し海上封鎖開始。 9月30日、堺港にて観艦式が執り行われる。 10月13日、第二次木津川口の戦いの前哨戦あり。 10月21日、荒木村重の謀反あり。
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戦闘までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 19:19 UTC 版)
明の軍勢による平壌陥落、大友吉統の逃亡(誤報による無断退却とも)などによって一時混乱状態にあった日本勢だが、朝鮮半島北部各地に展開していた諸将を漢城に集めて戦力を立て直し、宇喜多秀家を総大将、小早川隆景を先鋒大将として兵力をほぼ二分し碧蹄館の戦いにのぞんだ。 23日、開城にて李如松が漢城攻略の作戦会議を開き、査大受を偵察隊として送る事を決める。 24日、査大受率いる明軍の偵察隊が日本軍の偵察隊(主な指揮官は加藤光泰、前野長康)に勝利、日本軍偵察隊は60人余りの死者をだし撤退する。 査大受はこの勝利を開城の李如松に報告。朝鮮人による「日本軍の精鋭は平壌で壊滅し漢城には弱兵が残るのみ」との報告もあったため、25日、李如松は5000の兵と共に開城を出発する。
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