戦闘までの動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 09:49 UTC 版)
「ヴァン・ビューレンの戦い」の記事における「戦闘までの動き」の解説
プレーリーグローブの戦い後、トマス・ハインドマン少将の南軍は暗闇に紛れてヴァン・ビューレン方向に後退した。ヴァン・ビューレンには12月10日に到着したが、士気が落ち、疲れ切り、ボロボロの状態だった。ハインドマンは即座に部隊の再編成を始めた。アーカンソー州北西部で、ジョン・マーマデューク准将の指揮する騎兵師団を食べさせて行くのが不可能だと分かり、マーマデュークにはヴァン・ビューレンから100マイル (160 km) 下流のルイスバーグに部隊を移すよう命じた。こうしてハインドマン隊はその勢力を落とし、脱走や病兵の驚くべき増加で日々戦力を減らし続けた。病気はプレーリーグローブから後退する間に兵士達が経験した前例のないような厳しさによって起こっていた。ハインドマンは、アーカンザス川の北岸に主力部隊を留めておくのは得策ではないと判断し、南岸に移してその大半はフォートスミスの近くで宿営に入らせた。フェイガン旅団の歩兵1個連隊とヘンリー・クレイ・ウェスト大尉率いるアーカンソー砲兵隊の一部とがヴァン・ビューレンに留まり、R・P・クランプ中佐の騎兵1個連隊をヴァン・ビューレンの北9マイル (14 km) のドリッピング・スプリングスに張り付けさせた。クランプの部隊はオリバーの19マイル (31 km) 北、その他北西部に向かう道路全ての相当する点で哨戒線を張るよう指示を受けた。 12月28日午前10時、クランプ中佐が伝令を通じて、北軍が騎兵、歩兵、砲兵の大きな軍隊となり、コーブ・クリーク沿いを前進してきていると報告した。その数分後、フォートスミスから15マイル (24 km) のチョクトー族領土スカリービルにいたクーパー准将が、伝令を使い、その前日にフィリップス大佐の指揮する3ないし4個連隊の北軍騎兵隊が砲兵を伴ってフォートギブソンで川を渡って南岸に移ったと報告した。その直後、ヴァン・ビューレンの下流35マイル (56 km)、アーカンザス川の北岸、ファイエットビルからオザークとクラークスビルに向かう道路をカバーするボーランドに駐屯していた騎兵隊分遣隊から電報で情報が入り、北軍騎兵の1個連隊がその地点から20マイル (32 km) に入り、南に動いていると伝えてきた。フェイガン将軍の旅団がヴァン・ビューレンの下流25マイル (40 km) を行軍していた。フロスト大佐の部隊はヴァン・ビューレンの下流10マイル (16 km) にあり、勢力1,000名に満たないシェイバー大佐の旅団と砲兵1個大隊は、ヴァン・ビューレンの下流2マイル (3.2 km) に宿営していた。 クーパー准将は南の補給所まで後退を命じられ、そこから一番近いのがカナディアン川沿いジョンソンの駅であり、フォートスミスからは約90マイル (140 km) にあった。シェイバーの旅団は武装し、ヴァン・ビューレンの対岸を前進した。フロスト隊はシェイバー隊がいた位置まで戻るよう命令を受け、ヴァン・ビューレンの下流6マイル (10 km) にあるストレインの渡しを保持するために、十分な砲兵と歩兵を派遣された。ヴァン・ビューレンとフォートスミスの公的資産を、ボートと荷車を使いできるだけ速く移動させるよう命令を受けた。同時にハインドマン将軍はルイスバーグのマーマデューク将軍に電報を打ち、北へ動いて、北軍の側面と背面を衝くよう命じた。
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