北軍騎兵隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/10 09:25 UTC 版)
開戦時の北軍は正規兵の騎馬連隊5個で始まった。アメリカ第1および第2竜騎兵隊、第1騎馬ライフル銃隊、第1および第2騎兵隊だった。これらはそれぞれ第1から第5の騎兵連隊と改称され、第6連隊が徴募された。当初は、費用のこと、効果的な騎兵を訓練するには2年間を要すること、また西ヨーロッパの地形とは異なり荒々しく森林の多いアメリカの地形では、ナポレオンのような騎兵隊が非効率であるというのが当時の見解だったので、騎兵隊を追加することに躊躇していた。戦争が進行すると、騎兵の価値が(特に非攻撃任務で)理解され、多くの州で志願騎兵連隊が追加された。当初は騎兵の大きな部隊を作ることも躊躇していたが、戦争の全期間を通じて最終的に様々な徴兵期間の285個騎兵連隊と170の連隊に付加されない中隊を編成し、10,596名が戦死し、26,490名が負傷した。 北部兵は南部兵よりも乗馬経験が乏しいので、開戦時には不利だった。1862年8月までは、新兵を集める前に基本的な馬乗りとしての技量を試験する制度が無かった。さらに戦前にアメリカ陸軍にいた176名の経験を積んだ騎兵士官のうち、104名が南軍で戦うために軍隊を辞職した。北軍の長所は軍馬を購入する中央化された組織があり、傷ついた馬の置き換えに責任が無かったことだった。指揮官は部隊兵のために特殊な馬種を購入しようとすることが多かった。ポトマック軍ではモーガン種が特にお気に入りだった。南北戦争で有名になったモーガン種の馬には、フィリップ・シェリダンの「リーンジ」と、ストーンウォール・ジャクソンの「リトル・ソレル」がいた。 この戦争の初期、北軍騎兵隊は単に哨戒、前哨、従卒、上級士官の衛兵、伝令として使われて消耗することが多かった。北軍で最初に騎兵を有効に使ったのがジョセフ・フッカー少将であり、1863年にポトマック軍の騎兵部隊をジョージ・ストーンマン一人の下に統合させた。 戦争の中盤である1863年夏、北軍騎兵隊は独自の形になった。この時までは南軍騎兵隊に劣っていると見なされていたが、ブランディ・ステーションの戦いは引き分けに終わったものの、南軍と競合できる力が付いたと見なされることになった。 1864年、フィリップ・シェリダンはポトマック軍騎兵軍団の指揮を任され、その前任者よりも効果的で戦略的な方法に騎兵を使った。上官のジョージ・ミードは躊躇していたが、総司令官のユリシーズ・グラントを説き伏せて長駆襲撃を実行させた。その最初のものがイェロータバンの戦いであり、南軍の指揮官J・E・B・スチュアートを戦死させた。後には1864年のバレー方面作戦や、ロバート・E・リーを追ったアポマトックス方面作戦でその騎兵隊を有効に使った。 西部戦線では、東部ほどではないが2人の騎兵士官が名声を得た。ベンジャミン・グリアソンはグラントのビックスバーグ方面作戦と一体となってミシシッピ州を襲撃して回った。ジェイムズ・H・ウィルソンは、フランクリン・ナッシュビル方面作戦と1865年のアラバマ襲撃で実績を残した。 戦後、アメリカ軍騎兵隊は西部のフロンティアで大きな名声を博した。インディアンとの戦闘は、歴史家の大半が世界でも最良の軽装騎兵と見なしたものだった。
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