北軍兵との戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:00 UTC 版)
「ウィリアム・T・アンダーソン」の記事における「北軍兵との戦闘」の解説
アンダーソンは宿営地に戻ってその日の出来事を報告したが、その残酷さがトッドを不安にさせた。その日の午後半ばまでに第39ミズーリ志願歩兵連隊がセントラリアに到着していた。町で約120名のゲリラを見つけて追撃した。騎兵隊が接近していることをゲリラから聞いたアンダーソンは1隊を送って待ち伏せさせた。彼等は北軍兵をある丘の頂部まで引きつけた。アンダーソンが率いる1隊は丘の下で待ち、他のゲリラは近くに隠れた。その後にアンダーソンが丘に向かって突撃を掛けさせた。北軍による最初の一斉射撃でゲリラ兵5名が殺されたが、直ぐに武装の整ったゲリラ兵に圧倒されるようになり、逃げ出した者は追撃された。1人の北軍士官がセントラリアまで逃げ延びて待ち伏せのことを伝えたので、町に残っていた幾らかの兵士は逃げ出すことができた。しかし、大半の兵士は追われて殺された。アンダーソン隊は兵士の死体を切断し、生き残っている者は拷問に掛けた。 アンダーソン隊はこの戦闘で北軍兵125名を殺し、列車の22名と合わせて、南北戦争の中でも最大級のゲリラによる勝利となった。アンダーソンにとっても最大の勝利であり、その残酷さや被害の多さではローレンスやバクスタースプリングスでの実績を超えていた。この攻撃で地域での列車運行がほとんど止まり、北軍は線路の安全確保の備えを劇的に増やすことになった。アンダーソンはクァントリルが以前得ていたような悪名を獲得し、クァントリルを超えたことを示す意味もあって、「アンダーソン大佐」と自称するようになった。サザランドはこの虐殺をミズーリ州における戦争の最悪段階では最後のものと見ており、カステルとグッドリッチはこの大量殺戮を南北戦争における「野蛮さの縮図」と表現した。しかし、この攻撃に参加したフランク・ジェイムズは後にゲリラの行動を弁護して、北軍は黒い旗の下に進軍してきており、それは如何なる慈悲も示さない意図を表していたと論じていた。
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