対戦した戦力
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「ビックスバーグ方面作戦」の記事における「対戦した戦力」の解説
ユリシーズ・グラント少将のテネシー軍はこの方面作戦を約44,000名の勢力で開始し、7月には75,000名にまで脹れ上がった。5個軍団で構成された。ジョン・A・マクラーナンド少将の第13軍団、ウィリアム・シャーマン少将の第15軍団、ジェイムズ・B・マクファーソン少将の第17軍団、カドワラダー・ウォッシュバーン少将の第16軍団の分遣3個師団、エリアス・S・デニス准将の北東ルイジアナ地区軍からの分遣隊だった。ジョン・G・パーク少将の第9軍団が6月半ばに合流した。 南軍ジョン・C・ペンバートン中将のミシシッピ軍はおよそ30,000名であり、ウィリアム・W・ローリング、カーター・L・スティーブンソン、ジョン・H・フォーニー、マーティン・L・スミス、およびジョン・S・ボウェン各少将の5個師団で構成された。 ミシシッピ州レイモンドとジャクソンにはジョセフ・ジョンストン将軍の西部方面軍の一部6,000名の部隊がおり、ジョン・グレイ准将、ペイトン・H・コルキット大佐およびウィリアム・H・T・ウォーカー准将の旅団を含んでいた。
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対戦した戦力
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「リッチモンド・ピータースバーグ方面作戦」の記事における「対戦した戦力」の解説
方面作戦の開始時、グラントの北軍はジョージ・ミード少将のポトマック軍とベンジャミン・バトラー少将のジェームズ軍で構成されていた。ポトマック軍には次の軍団が含まれた。 第2軍団、ウィンフィールド・スコット・ハンコック少将指揮、デイビッド・バーニーとジョン・ギボン各少将およびフランシス・バーロー准将の師団 第5軍団、ガバヌーア・ウォーレン少将指揮、チャールズ・グリフィン、ロムニー・B・エアーズ、サミュエル・クロウフォードおよびライサンダー・カトラー各准将の師団 第6軍団、ホレイショ・G・ライト少将指揮、デイビッド・A・ラッセル、トマス・H・ニールおよびジェイムズ・B・リケッツ各准将の師団 第9軍団、アンブローズ・バーンサイド少将指揮、ジェイムズ・H・レドリー、ロバート・B・ポッター、オーランド・B・ウィルコックスおよびエドワード・フェレーロ各准将の師団(フェレーロ師団には有色人連隊を含む) 騎兵軍団、フィリップ・シェリダン少将指揮、アルフレッド・T・A・トーバート、デイビッド・グレッグおよびジェイムズ・H・ウィルソン各准将の師団 ジェームズ軍には以下の軍団が含まれた。 第10軍団、アルフレッド・H・テリー准将指揮、ロバート・S・フォスターおよびアデルバート・エイムズ各准将の師団 第18軍団、ウィリアム・F・"ボールディ"・スミス少将指揮、ウィリアム・T・H・ブルックス、ジョン・H・マーティンデイルおよびエドワード・W・ヒンクス各准将の師団(ヒンクス師団には有色人連隊を含む) 騎兵師団、オーガスト・カウツ准将指揮 グラントはリチャード・エップス博士の持ち物であるアポマトックス荘園の芝生にあり、1763年に建てられた最古の建物である小屋を作戦本部にした。そこは当時シティポイント、現在はホープウェルとなっている。 リーの南軍は自身の北バージニア軍と、P・G・T・ボーリガード指揮下でリッチモンドを守る散開し、組織化されていない1万名の少年と男の集団で構成された。北バージニア軍は5個軍団で構成された。 第1軍団、リチャード・H・アンダーソン中将指揮、ジョージ・ピケットとチャールズ・W・グリフィン各少将およびジョセフ・B・カーショー准将の師団 第2軍団、ジュバル・アーリー中将指揮、6月12日にシェナンドー渓谷での作戦に派遣され、ピーターズバーグ防衛では直接の役割はなし 第3軍団、A・P・ヒル中将指揮、ヘンリー・ヒースとカドマス・M・ウィルコックス各少将およびウィリアム・マホーン准将の師団 騎兵軍団、ウェイド・ハンプトン少将指揮、フィッツヒュー・リーおよびW・H・F・"ルーニー"・リー各少将の師団 ボーリガードのノースカロライナおよび南バージニア方面軍は、ロバート・ランソム・ジュニア、ロバート・F・ホークおよびウィリアム・H・C・ホワイティング各少将とアルフレッド・H・コルキット准将の消耗した師団があった(方面作戦の後半でボーリガードの方面軍は拡大され、ホーク少将とブッシュロッド・ジョンソン少将の師団に再編された。)。 グラントの軍隊はこの方面作戦の間、戦力は変化したものの、リー軍よりかなり多勢であった。市への最初の攻撃時、北軍15,000名がボーリガードの5,400名と対峙した。6月18日までに、北軍勢力は67,000名を越え、対する南軍は20,000名だった。方面作戦全体の典型的な姿として、7月半ばに7万名の北軍がピーターズバーグ周辺の南軍36,000名と向かい合い、バトラーの4万名はリッチモンド周辺で南軍21,000名と対峙した。北軍はオーバーランド方面作戦の間に恐ろしいほどの損失を受けたが、兵員や装備の補給が可能であり、ワシントンD.C.の守備隊を使えるという利点も利用し、またアフリカ系アメリカ人兵士を使えるようにもなっていた。包囲戦の終わりまでに、グラント軍は125,000名を持ってアポマトックス方面作戦を始められた。対照的に南軍は、戦闘、病気および脱走で失われた兵士を補充することが難しかった。
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対戦した戦力
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グラントのカイロ地区軍は、ジョン・A・マクラーナンド、チャールズ・F・スミスおよびルー・ウォーレス各准将の3個師団で構成された(ウォーレスはヘンリー砦の時まで予備隊の旅団指揮官だったが、2月14日にドネルソンに呼び寄せられドン・カルロス・ビューエル軍から借りた1個旅団を含め蒸気船で到着した援兵を含む新しい師団の編成に携わった。)。歩兵の師団を支援するのは騎兵2個連隊と砲兵8個大隊であり、総勢は25,000名だった。ただし、戦闘の開始時点で使えるのは15,000名だった。 ヘンリー・ハレック少将、北軍 ユリシーズ・グラント准将、北軍 アンドリュー・H・フット海軍将官、北軍 ジョン・A・マクラーナンド准将、北軍 チャールズ・F・スミス准将、北軍 ルー・ウォーレス准将、北軍 アルバート・ジョンストン将軍、南軍 P・G・T・ボーリガード将軍、南軍 ジョン・B・フロイド准将、南軍 ギデオン・J・ピロー准将、南軍 サイモン・B・バックナー准将、南軍 ネイサン・ベッドフォード・フォレスト大佐、南軍 アメリカ海軍将官アンドリュー・H・フットの指揮する西部船隊は、4隻の鋼製被覆砲艦(旗艦USSセントルイス、USSカロンデレト、USSルイビルおよびUSSピッツバーグ)および3隻の木製被覆砲艦(USSコネストーガ、USSタイラーおよびUSSレキシントン)で構成されていた。USSシンシナティとUSSエセックスはヘンリー砦で損傷を受け、修繕中だった。 フロイドの南軍はおよそ17,000名であり、3個師団、守備隊および付設する騎兵隊で構成された。3個師団はフロイド(フロイドが全軍指揮を執ったときはガブリエル・C・ウォートン大佐が代替)、ブッシュロッド・ジョンソンおよびサイモン・B・バックナー各准将が指揮した。その前の1月に短期間砦の指揮を執っていた工兵士官ジョンソンは、戦闘中実質的にギデオン・J・ピロー(グラントの最初の戦闘であるベルモントの戦いで対抗した)に指揮権を奪われていた。ピローは砦の総指揮官だったが上級将軍のフロイドの到着で取って代わられていた。守備隊はジョン・W・ヘッド大佐、騎兵隊はネイサン・ベッドフォード・フォレスト大佐が指揮した。 ドネルソン砦は1861年に砦の場所を選んで工事を始めたダニエル・S・ドネルソン准将の名前を付けた。憐れなヘンリー砦よりもかなり手強いものだった。カンバーランド川からは乾いた地盤に約100フィート (30 m)嵩上げされ、攻撃してくる砲艦に対して大砲弾を打ち下ろすことができ、これはヘンリー砦には無かった長所であった。川を向いた大砲は32ポンド滑腔砲10門、6.5インチ(16 cm)施条砲1門、および10インチ (25.4 cm)コロンビヤード砲1門があった。砦とドーバーの小さな町の周りには半円状に3マイル (5 km)の塹壕があった。この塹壕は下を見下ろす尾根の上にあり、前には厚い鉄条網、背面には大砲があった。右翼はバックナーとそのボウリング・グリーン部隊(その一端はヒックマン・クリークに接していた)、左翼にはジョンソンとピローの部隊(その一端はカンバーランド川近くにあった)が入った。これに対する北軍は左翼のスミス隊から右にウォーレス隊(2月14日に到着)、およびマクナーランド隊と並んだ。ピロー隊に面するマクナーランドの右翼は溢れるリック・クリークに届くには兵士が足りず、空いたままになった。南軍前線の中央をぬかるんだインディアン・クリークが走り、この地点は両側から見下ろす大砲で主に守られた。
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対戦した戦力
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「第二次コリンスの戦い」の記事における「対戦した戦力」の解説
南軍ヴァン・ドーンの合流テネシー軍は次のような構成だった。 プライス軍団、西部軍とも呼ばれる、ルイ・ヘーベル准将師団、マーティン・E・グリーン准将と、イライジャ・ゲイツ、W・ブルース・コルバートおよびジョン・D・マーティン各大佐の旅団 ダブニー・H・モーリー准将師団、ジョン・C・ムーアとウィリアム・L・キャベル各准将およびチャールズ・W・ファイファー大佐の旅団 ミシシッピ地区軍第1師団、マンスフィールド・ラベル少将指揮、アルバート・ラスト、ジョン・B・ビルピグー、ジョン・S・ボーランド各准将の旅団、およびウィリアム・H・ジャクソン大佐の騎兵旅団とセント・L・デュピール少佐のルイジアナ・ズアーブ大隊 ローズクランズのミシシッピ軍は次のような構成だった。 デイビッド・S・スタンリー准将の師団、ジョン・W・フラーとジョセフ・A・モウアー各大佐の旅団 チャールズ・S・ハミルトン准将の師団、ナポレオン・B・ビュフォードとジェレマイア・S・サリバン各准将の旅団 ジョン・K・マイズナー大佐の騎兵師団、エドワード・ハッチとアルバート・L・リー各大佐の旅団 テネシー軍から借りた1個師団、トマス・A・デイビーズ准将指揮、プレザント・A・ハックルマンとリチャード・J・オグルスビー各准将およびサイラス・D・ボールドウィン大佐の旅団 借用した第2師団、トマス・J・マッキーン准将指揮、ジョン・マッカーサー准将およびジョン・M・オリバーとマーセラス・M・クロッカー各大佐の旅団
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対戦した戦力
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「ゲティスバーグからの撤退」の記事における「対戦した戦力」の解説
北軍のポトマック軍と南軍の北バージニア軍は、ゲティスバーグの戦いを戦った編成をそのまま保持していた。7月10日までに北軍の損失は補充され、ミード軍は約80,000名となっていた。南軍はこの方面作戦の間援軍を受けることがなく、戦闘可能な兵士は約50,000名に過ぎなかった。 ポトマック軍は重要な将官を戦闘で失ったために、その役割にそこそこの変更があった。ミードの参謀長ダニエル・バターフィールド少将は7月3日に負傷し、7月8日にアンドリュー・A・ハンフリーズ少将が交代した。ヘンリー・プライス准将が、ハンフリーズの受け持っていた第3軍団の1個師団指揮を引き継いだ。ジョン・F・レイノルズ少将が7月1日に戦死し、第6軍団のジョン・ニュートン少将がその跡を継いだ。7月3日に負傷したウィンフィールド・スコット・ハンコック少将の代わりには、ウィリアム・ヘイズ准将が就いた。この方面作戦の大半でハーパーズ・フェリーの守備隊を一時的に指揮していたウィリアム・H・フレンチ少将が負傷したダニエル・シックルズ少将に代わって、7月7日に第3軍団長となった。戦闘による損失に加えて、ミード軍は南北戦争の間常に続いた条件によっても災いされた。つまりその徴兵期間が切れた兵士や連隊が出て行ってしまうことであり、これは実行されている作戦中にも実際に起こった。しかし、良い面とすれば、ハーパーズ・フェリー近くのメリーランド高地にいたフレンチ将軍の約10,000名という一時的だが経験の無い援軍が可能であり、これらの兵士は第1軍団と第3軍団に組み入れられた。期限切れとこの援軍を差し引きして、ポトマック軍全体では約6,000名の増となった。ハーパーズ・フェリー、メリーランド高地およびサウス山の峠にいた部隊を含め、7月14日までに11,000ないし12,000名の兵士が増えたが、ミードはこれらの部隊の戦闘有効性についてはかなり疑問を持っていた。ポトマック軍に加えて、ダライアス・コウチ少将のサスケハナ方面軍は、ウェインズバラに7,660名、チェンバーズバーグに11,000名およびマーサーズバーグに6,700名を持っていた。これらは「緊急配備部隊」であり、リーがペンシルベニア州に侵攻したときに急に起ち上げられ、ミードの命令下に入った。 リー軍はその軍団組織と指揮官は同じままだったが、多くの重要な将軍達が戦死する(ルイス・アーミステッド、リチャード・ガーネット、アイザック・E・アブリー)か、捕虜になる(ジェイムズ・L・ケンパー、ジェイムズ・J・アーチャー)か、あるいは重傷を負う(ジョン・ベル・フッド、ウェイド・ハンプトン、ジョージ・T・アンダーソン、ドーシー・ペンダー、アルフレッド・スケールズ)かしていた。
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対戦した戦力
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「ホーズショップの戦い」の記事における「対戦した戦力」の解説
ウェイド・ハンプトンは戦死したJ・E・B・スチュアートの跡を継いで騎兵軍団を指揮する候補者2人のうちの1人であり、トマス・ロッサー准将の指揮するローレル旅団を連れて来ていた。もう一人の候補者とはフィッツヒュー・リー少将であり、ウィリアムズ・C・ウィッカム准将の旅団を伴っていた。ハンプトン隊の残りは、ジョン・R・シャンブリス准将の1個旅団と、ジョン・A・ベイカー大佐の旅団の一部(どちらもW・H・F・リー少将の師団から来ていた)、マシュー・C・バトラー准将の新しい旅団(新しく結成され、経験の無いサウスカロライナ第4および第5騎兵連隊、一時的にB・フーガー・ラトリッジ大佐が指揮、およびジョン・M・ミレン大佐のジョージア第20大隊)、および騎馬砲兵隊の幾らかの部分で構成されていた。 ハンプトンの騎兵隊に直接対抗した北軍騎兵隊は、デイビッド・マクマートリー・グレッグ准将指揮下の第2師団であり、ヘンリー・E・デイビーズ・ジュニア准将とJ・アービン・グレッグ大佐(グレッグ准将の従弟)の2個旅団で構成されていた。この戦闘の後半で到着した援軍は、アルフレッド・T・A・トーバート准将の師団、ジョージ・カスター准将とウェズリー・メリット准将の旅団、トマス・C・デビン大佐の旅団から1個連隊だった。
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対戦した戦力
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「フランクリン・ナッシュビル方面作戦」の記事における「対戦した戦力」の解説
フッドのテネシー軍39,000名はロバート・E・リー将軍の北バージニア軍に次いで、南軍に残っている軍隊としては2番目に大きなものだった。ベンジャミン・F・チーザム、スティーブン・D・リーおよびアレクサンダー・P・スチュアート各中将の3個軍団とネイサン・ベッドフォード・フォレスト少将の騎兵隊で構成された。 この方面作戦の開始時点で、ミシシッピ地区軍と呼ばれた北軍はアトランタにいたシャーマンが指揮していたが、シャーマン自身が関わったのは10月の終わりまでだった。シャーマンが指定したのはトーマス(「チカマウガの岩」と渾名された)のカンバーランド軍であり、この軍隊は以前ウィリアム・ローズクランズ少将やシャーマン自身が指揮していた。シャーマンが海への進軍のために去った後はトーマスが主たる指揮官であり、その下にはジョン・マカリスター・スコフィールド少将が指揮するオハイオ軍が付いた。総勢は34,000名であり、デイビッド・S・スタンリー少将の第4軍団、ジェイコブ・D・コックス准将の第23軍団およびジェイムズ・H・ウィルソン少将の騎兵軍団で構成された。トーマス軍にはナッシュビルまたその管轄範囲内にも散開させた別の6,000名という兵力があった。
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対戦した戦力
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「セブンパインズの戦い」の記事における「対戦した戦力」の解説
北軍105,000名はチカホミニー川に跨ってリッチモンド郊外に近い北東にいた。川の北には3個軍団がおり、北軍の鉄道による補給線を守っていた。フィッツ・ジョン・ポーター准将の第5軍団、ウィリアム・B・フランクリン准将の第6軍団、およびエドウィン・V・サムナー准将の第2軍団だった。川の南には、エラスムス・D・キーズ准将の第4軍団が突出し、南軍の前線に近い位置に陣取った。またサミュエル・P・ハインツェルマン准将の第3軍団も南岸にいた。5月31日の戦闘開始時点で、マクレランは慢性のマラリアによる発熱で病床にあった。 ジョンストンの北バージニア軍60,000名はリッチモンドの防御線を守っていた。その軍隊はジェイムズ・ロングストリート少将の右翼(ロングストリート師団を指揮するリチャード・H・アンダーソン准将、D・H・ヒル少将およびベンジャミン・フーガー准将の3個師団)とグスタヴス・ウッドソン・スミス少将の左翼(スミス師団を指揮するウィリアム・H・C・ホワイティング准将とA・P・ヒル少将の2個師団)、およびジョン・B・マグルーダー少将の予備隊(ラファイエット・マクローズ准将とデイビッド・R・ジョーンズ准将の2個師団)で構成された。
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対戦した戦力
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イウカにいたプライスの南軍は総勢3,179名であり、次の構成だった。 ルイス・ヘンリー・リトル准将の師団、イライジャ・ゲイツおよびジョン・D・マーティン各大佐とルイ・ヘーベルおよびマーティン・E・グリーン各准将の旅団。 フランク・C・アームストロング准将の騎兵旅団 ローズクランズの北軍は約4,500名であり、次の構成だった。 デイビッド・S・スタンリー准将の師団、ジョン・W・フラーおよびジョセフ・A・モウアー各大佐の旅団。 チャールズ・S・ハミルトン准将の師団、ジョン・B・サンボーン大佐とジェレマイア・S・サリバン准将の旅団。 ジョン・K・マイズナー大佐の騎兵師団 エドワード・オード軍はイウカの主戦闘に参加しなかった。
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対戦した戦力
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「フレンチマンズクリークの戦い」の記事における「対戦した戦力」の解説
アメリカ第13歩兵連隊のウィリアム・キング大尉は、150名の兵士と、サミュエル・アンガス海軍大尉が指揮する70名のアメリカ海軍水兵で構成された。キングの兵士は、アメリカ第12歩兵連隊のウィロビー・モーガン大尉の中隊と、アメリカ第13歩兵連隊のジョン・スプルールおよびジョン・E・ウール各大尉の中隊からの者達だった。 フレンチマンズクリークに向かうことになったチャールズ・ボーアストラー中佐の200名は、自身のアメリカ第14歩兵連隊の兵士だった。この連隊の指揮官ウィリアム・H・ワインダー大佐は350名の兵士と共に予備隊となった。 地元のイギリス軍指揮官セシル・ビショップ中佐はチッペワに駐屯し、第41歩兵連隊第1大隊の1個中隊、第5リンカーン民兵隊の歩兵2個中隊、およびリンカーン民兵隊砲兵の小部隊が配属されていた。さらにリチャード・ハット少佐の指揮する第5リンカーン民兵隊の部隊が近くに置かれた。後の12月26日に攻撃されることになった地域には、ビショップの全体指揮下に数個の分遣隊を配置した。エリー砦には、オームズビー少佐の指揮する第49歩兵連隊の80名とウィーラン大尉の指揮するロイヤル・ニューファンドランド連隊の50名が駐屯していた。ブラックロック渡しにはジョン・ボストウィック大尉の指揮下にノーフォーク民兵隊の2個中隊が置かれた。チッパワ道路沿いにエリー砦から2.5マイル (4 km) のレッドハウスには、トマス・ラモント中尉の指揮下に第49歩兵連隊の38名、キング中尉の指揮下にロイヤル砲兵連隊の幾らか、および民兵の砲兵幾らかが置かれた。ラモントの砲兵は18ポンドと24ポンドの大砲各1門を備え、キングの砲兵は6ポンドと3ポンドの大砲各1門を備えた。さらにチッパワ道路沿いのエリー砦から約4.5マイル (7.2 km) の位置にあるフレンチマンズクリークの基地には、J・バートリー中尉の指揮で第49歩兵連隊の38名が置かれた。そこからあまり離れていない所には、アンガス・マッキンタイア中尉の指揮で第41歩兵連隊の軽装歩兵中隊70名も置かれた。
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対戦した戦力
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「プレーリーダンの戦い」の記事における「対戦した戦力」の解説
この戦闘に参加した守る側の南軍はスターリング・プライス将軍の全体指揮下にあり、主にアーカンソー州とミズーリ州の連隊と、地元民兵隊で構成されていた。その民兵隊はジェイムズ・ファガン、ジョン・マーマデューク、サミュエル・マキシー各将軍の指揮する騎兵3個師団と、ジョン・ウォーカー、トマス・チャーチル、モスビー・パーソンズ各将軍の指揮する歩兵と下馬騎兵の3個師団、さらに砲兵5個大隊があった。アーカンソー州の部隊の多くは徴集兵であり、その内の幾らかはそれ以前の作戦行動に参加し、一旦軍を離れたが、南軍の強制徴募隊によって再徴兵されていた。 攻撃側の北軍はフレデリック・スティール将軍の全体指揮下にある第7軍団であり、フレデリック・サロモンとジョン・セイヤー各将軍の指揮する歩兵2個師団と、ユージーン・カー将軍の指揮する騎兵師団で構成され、砲兵5個大隊が支援していた。攻撃部隊の大半はアイオワ州、ウィスコンシン州、インディアナ州、イリノイ州、オハイオ州、アーカンソー州、カンザス州の出身であり、カンザス州の場合は立ち上げられたばかりのアフリカ系アメリカ人連隊が入っていた。第7軍団のほとんど全ての連隊は、腸チフス、麻疹、マラリア(南部熱)、インフルエンザ、慢性下痢、原因不明のウィルス、慢性のリウマチといった病気や行動障害のために、かなり戦力を落としていた。北部兵は1862年から1863年にヘレナ市周辺のアーカンソー・デルタ地帯で従軍している間に遭遇した湿気た状態によって病気を患っていた。北軍のアーカンソー方面作戦のある時点で、ある師団では病気の兵士が1,000人にもなっていた。アーカンソーの戦域では、北軍の場合戦闘によるよりも病気による死者数の方がはるかに多かった。
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対戦した戦力
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ローズクランズが指揮する北軍のカンバーランド軍は方面作戦の開始時点で5万名ないし6万名の戦力だった。次の主要な組織で構成された。 第14軍団、ジョージ・ヘンリー・トーマス少将指揮、26,508名、4個師団、師団指揮官はラベル・H・ルソー少将、ジェイムズ・S・ネグリー少将、ジョン・M・ブラナン准将、ジョセフ・J・レイノルズ少将 第20軍団、アレクサンダー・マクック少将指揮、16,047名、3個師団、師団指揮官はジェファーソン・C・デイビス准将、リチャード・W・ジョンソン准将、フィリップ・シェリダン少将 第21軍団、トマス・L・クリッテンデン少将指揮、17,023名、3個師団、師団指揮官はトマス・J・ウッド准将、ジョン・M・パーマー少将、ホレイショ・P・ヴァン・クレーヴ准将 予備軍団、ゴードン・グランジャー准将指揮、20,615名、3個師団、師団指揮官はアブサロム・ベアード准将、ジェイムズ・D・モーガン准将、ロバート・S・グランジャー准将 騎兵軍団、デイビッド・S・スタンリー少将指揮、12,281名、2個師団、師団指揮官はロバート・B・ミッチェル准将、ジョン・B・ターチン准将 ブラッグの指揮する南軍のテネシー軍は約45,000名だった。次の主要な組織で構成された。 ポーク軍団、レオニダス・ポーク中将指揮、有効総数14,260名 ハーディ軍団、ウィリアム・J・ハーディ中将指揮、有効総数14,260名 ウィーラー騎兵軍団、ジョセフ・ウィーラー少将指揮、有効総数8,967名 フォレスト騎兵師団、ネイサン・ベッドフォード・フォレスト准将指揮、有効総数4,107名
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対戦した戦力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/29 00:39 UTC 版)
バンクスは全軍の指揮権を持っていたが、行軍操作はウィリアム・B・フランクリン少将に代行させた。フランクリン軍は約15,000名の歩兵、5,000名の騎兵そして恐らく40門の大砲があった。シャーマンはこのとき差し迫っているアトランタ方面作戦の準備中であり、西部軍から15,000名(3個師団)と川の1個旅団をA・J・スミス准将の指揮で貸し与えた。スティールはアーカンソー州から約7,000名を連れてきていた。川の移動を伴うときは、ポーターの23隻の戦隊がおり、うち13隻の砲艦の6隻は鉄の装甲艦だった。この戦争中ミシシッピ川より西の北軍作戦では最大のものだった。 この北軍の作戦に対抗するために南軍のジョン・マグルーダー少将は、東部テキサス方面軍から大半が騎兵の部隊を派遣した。ザカリー・テイラー元大統領の息子、西ルイジアナ方面軍のリチャード・テイラー中将がこの方面作戦の戦闘の大半を指揮した。当初の部隊は15,000名だった。マグルーダーの部隊はルイジアナに到着するのが遅れた。カービー・スミスも2個師団それぞれ7,000名をルイジアナ北西部に送りテイラーを支援した。南軍の海軍も4隻の鉄装甲艦、10隻の砲艦、14隻の綿花装甲ラム、および兵士や物資を運ぶための23隻の輸送船を揃えた。
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