アポマトックスとは? わかりやすく解説

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アポマトックス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:19 UTC 版)

ジョシュア・チェンバレン」の記事における「アポマトックス」の解説

1865年4月9日朝、チェンバレンは、南軍参謀士官休戦の旗の下に近付いて来たとき、リー将軍北バージニア軍降伏望んでいることを察知した。「サー」その士官チェンバレン前に立ち、「私はゴードン将軍の所から来た。リー将軍グラント将軍から提案されていた降伏に関して考え聞けるまで、敵対関係中断望んでいる」と告げた翌日チェンバレン作戦本部呼び出され、そこでチャールズ・グリフィン少将からチェンバレン4月12日アポマトックス・コートハウス行われることになった正式な降伏儀式一部として南軍歩兵パレード差配することになった告げられた。 かくしてチェンバレン南北戦争中でも最も胸を打つ場面立ち会うことになった南軍兵達は道を行軍してきてチェンバレンの下にその武器連隊旗渡しチェンバレンはその発案で自隊の兵士達に集まるように命じ尊敬の印として「捧げ銃」をさせた。チェンバレン次に起こったことを次のように書いたゴードン行軍隊列先頭におり、儀礼で我々と張り合った。彼は伏し目がちに馬に騎り、沈痛さを通り越していたが、武器ガチャガチャ鳴った時に目を上げ即座にその重大さ理解し、彼が熟達している最高の優雅さで馬を回し、その鐙に剣先落とし号令をかけた。このとき彼の後に付いていた大きな南軍降伏記し降ろされ、その少なくなった旅団が我々の右手出て捧げ銃」に返礼した。この間、我々の側ではトランペット太鼓の音も無く歓声言葉や人の動き無く死者の横を過ぎるかのように厳かな静けさがあった。 チェンバレン南軍兵に対す敬礼北部多くの者には不人気だったが、チェンバレンはその回想録軍隊通過』の中でその行動弁護している。かなりの年数経ってゴードンはその回想録の中でチェンバレンのことを、「北軍でも最も騎士道精神のある軍人1人」と思い起こしている。ゴードン40年上後チェンバレン証言を読むまで、このときの逸話言及することは無かった

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アポマトックス (1865年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 05:27 UTC 版)

東部戦線 (南北戦争)」の記事における「アポマトックス (1865年)」の解説

詳細は「アポマトックス方面作戦」を参照 1865年1月リー南軍総司令官になったが、この人事は南部を救うには少し遅すぎた。 ピーターズバーグ包囲戦続きグラント部隊東から西動かして防御を破るか南軍取り囲もうと何度も務めた3月までに、両軍共にこの包囲線に莫大な労力費やしていたので、リーピーターズバーグから引くことを決断したジョン・B・ゴードン将軍北軍包囲線の東端にあるステッドマン砦を攻撃して北軍包囲線を短くさせる作戦立てた。この作戦当初はうまく行ったが、数的に劣勢だったので最終的に撤退強いられたシェリダンバレーから戻り南軍側面衝く任務与えられた。これに対応するためにリージョージ・ピケット少将部隊側面防衛送ったグラントピケット軍を遮らせるために軍団派遣したが、3月31日ディンウィディ・コートハウスの戦いピケット軍を敗れなかった。翌4月1日北軍攻撃続行してファイブフォークスの戦いピケット軍の側面を衝き、南軍左翼崩壊させた。 ファイブフォークスでの勝利の後の4月2日グラント南軍前線へ全面攻撃指示し第三次ピーターズバーグの戦いとなって劇的な局面打開繋がったその夜リーピーターズバーグリッチモンドから兵を引き、アメリカ連合国政府を逃がす目的地である西のダンビル向かった。そこから南のノースカロライナにいるジョンストン軍と合流する意図もあった。首都リッチモンド4月3日降伏した。 ここでの戦いリーシェリダン競争になったリー撤退しながら補給確保しようとし、シェリダンリー軍の動き遮断しようとした4月6日セイラーズクリークの戦いで、南軍の約4分の1(約8,000名、2個軍団中心部隊)が切り取られ降伏させられた。南軍補給列車多く捕獲された。4月9日リー最後の作戦として、ゴードン消耗した軍団北軍前線突破しリンチバーグ補給物資辿り着こうとした。ゴードン軍はシェリダン騎兵隊簡単に追い払ったが、北軍第5軍団行く手抑えられた。ゴードン軍は三方抑えられ降伏しリーもアポマトックス郡庁所在地グラント降伏したその後南軍による小さな戦闘降伏続いたが、4月9日リー降伏南北戦争実質的な終わりであった南軍主力最大将軍敗れたことで、寛大で名誉有る条件降伏申し出なされたリーはその参謀数人助言拒否し兵士達田園地帯逃げ込んでゲリラとして戦争続けないようにすることを望んだので、それはその地域回復計り知れない助けとなった

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