ファイブフォークス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 01:45 UTC 版)
「ジョージ・ピケット」の記事における「ファイブフォークス」の解説
ゲティスバーグの後で、ピケットはリーやロングストリートから非難を受けることは無かったが、その経歴は下降線を辿った。冬のあいだ、ヴァージニア南部及びサウスカロライナ方面軍の指揮を執り、続いてリッチモンド防衛軍の師団指揮官を務めた。バミューダ・ハンドレッド方面作戦でP・G・T・ボーリガードが北軍のベンジャミン・バトラーを動けなくした後で、ピケットの師団はオーバーランド方面作戦を遂行するリーの支援に派遣された。それはコールドハーバーの戦いの直前だったが、この戦いではピケットの師団が防御線の中央を守り、北軍主力の攻撃は来なかった。その師団はピーターズバーグ包囲戦に参加するために戻った。1865年4月1日、ファイブフォークスの戦いにおけるピケットの敗北が転回点となって、脆弱な南軍の防衛線が明らかになり、リーはリッチモンドを明け渡してアポマトックス・コートハウス方面への撤退を命じた。これはピケットにとって最後の屈辱となった。というのも攻撃された時には軍隊から2マイル (3km) 離れて仲間の士官とシャッド(魚)の焼き物を食していたからだった。ピケットは戦場に駆けつけたがとき既に遅かった。セイラーズクリークの戦いの後で、指揮官を解任された。1865年4月9日、アポマトックス・コートハウスで仮釈放された。 ピケットの未亡人が語る伝説によれば、北軍がリッチモンドに入ったとき、思いがけない訪問を受けた。彼は愛想良く行動し、そこがピケットの家なのかを尋ねた。エイブラハム・リンカーンは戦争前の古い知己の運命を決めるために自らやって来ており、サリーは驚かされ、自分がピケットの妻であることを認め、大統領が子供を揺りかごであやすのをそのままにしていた。リンカーンの歴史家ジェラルド・J・プロコポウィッツはこの話を「空想」と片付けている。
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