ピーターズバーグの包囲と突破
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「ナモザイン教会の戦い」の記事における「ピーターズバーグの包囲と突破」の解説
「ピーターズバーグ包囲戦」も参照 「ファイブフォークスの戦い」も参照 「第三次ピーターズバーグの戦い」も参照 292日に及んだリッチモンド・ピータースバーグ方面作戦(ピーターズバーグ包囲戦)の間、北軍の総司令官ユリシーズ・グラントは塹壕と消耗戦の作戦を遂行するしかなくなった。数的に劣勢な南軍を消耗させ、ピーターズバーグとリッチモンドへの供給源と供給線を破壊または遮断し、防衛線を長くさせることで弱っていく南軍に限界まで守らせるようにすることだった。1865年2月5日から7日に起きたハッチャーズランの戦いの後、前線はさらに4マイル (6.4 km) 伸び、リーが新しい守備隊を入れた後はもう予備隊がほとんど無かった。リーはその軍隊でこれ以上防御を維持できないと考え、さらに戦争を継続するためには、その軍隊の一部あるいは全軍がリッチモンドとピーターズバーグを離れ、ダンビルあるいはおそらくリンチバーグで食料や物資を補給し、ノースカロライナ州で北軍ウィリアム・シャーマン少将の軍に対抗しているジョセフ・ジョンストン将軍の軍隊と合流しなければならないことが分かっていた。南軍が即座にシャーマン軍を破れなければ、グラント軍がシャーマン軍の残りと合流できる前に、グラント軍に対抗するために戻って来ることになるはずだった。 リーは、1865年3月25日にステッドマン砦とジョーンズ農園で南軍が敗北した後、グラントが直ぐに南軍に残されたピーターズバーグへの供給線であるサウスサイド鉄道とボイドトン板張り道路の方向に動いて来て、恐らくはリッチモンドとピーターズバーグからの退路を遮断することになると理解した。 1865年3月28日から29日の夜に始まった北軍の攻勢により、ルイス農園の戦い、ホワイトオーク道路の戦い、ディンウィディ・コートハウスの戦いと続き、4月1日のファイブフォークスの戦いと4月2日の第三次ピーターズバーグの戦いによって、グラントの北軍は遂にピーターズバーグの防衛線を突破した。 フィリップ・シェリダン少将の指揮下にこの時もシェナンドー軍として組織されていた軍は、元々の騎兵軍団にポトマック軍から派遣されたばかりの第5軍団が加わり、総勢は約22,000名になっていた。4月1日、このシェナンドー軍が南軍の前線西端からさらに4マイル (6.4 km) のファイブフォークスで、南軍北バージニア軍からジョージ・ピケット少将の下に派遣された騎兵と歩兵のタスクフォース約1万名を破った。南軍は約800名の損失を出し、さらには2,400名ないし4,000名を捕虜に取られて失い、戦略的な地点であるファイブフォークスの交差点から、サウスサイド鉄道沿いのフォード駅あるいはフォードの集会所に後退した 。 4月2日の第三次ピーターズバーグの戦いの後、南軍はハッチャーズランの西、ホワイトオーク道路沿いのクレイボーン道路と出会うファイブフォークスの真東で4個旅団が防御線を張った。北軍ポトマック軍のアンドリュー・A・ハンフリーズ少将の指揮する第2軍団がこの南軍部隊を攻撃して、サウスサイド鉄道のサザランド駅にまで後退させた。4月2日の戦闘中に戦死したA・P・ヒル中将の後任として軍団長となったヘンリー・ヒース少将がこれら旅団と共に防衛線を組織していたが、ヒースがピーターズバーグに戻った後はジョン・R・コーク准将にその指揮を預けていた 。 同じく4月2日午後に起きたサザランド駅の戦いで、北軍のネルソン・マイルズ准将の指揮する師団がサウスサイド鉄道の最後の防衛線を突破し、南軍の供給線と退路をも遮断した。急ごしらえで作られた防衛線に対する北軍1個旅団のみの最初の攻撃は、大きな損失を出して撃退された。マイルスは2個旅団で南軍の陣地を奪おうとして失敗した後、その日の午後半ばに再度、このときは全軍で南軍を攻撃して圧倒し、南軍左翼を占めていたサミュエル・マクゴワン准将旅団を崩壊させ始めた。この南軍の敗北により、最後の供給線であるサウスサイド鉄道が遮断され、ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍はピーターズバーグとリッチモンド両市を棄てて西方に逃げ出さざるを得なくなった。
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ピーターズバーグの包囲と突破
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「アメリア・スプリングスの戦い」の記事における「ピーターズバーグの包囲と突破」の解説
「ピーターズバーグ包囲戦」も参照 「ファイブフォークスの戦い」も参照 「第三次ピーターズバーグの戦い」も参照 292日に及んだリッチモンド・ピータースバーグ方面作戦(ピーターズバーグ包囲戦)の間、北軍の総司令官ユリシーズ・グラントは塹壕と消耗戦の作戦を遂行するしかなくなった。数的に劣勢な南軍を消耗させ、ピーターズバーグとリッチモンドへの供給源と供給線を破壊または遮断し、防衛線を長くさせることで弱っていく南軍に限界まで守らせるようにすることだった。1865年2月5日から7日に起きたハッチャーズランの戦いの後、前線はさらに4マイル (6.4 km) 伸び、リーが新しい守備隊を入れた後はもう予備隊がほとんど無かった。リーはその軍隊でこれ以上防御を維持できないと考え、さらに戦争を継続するためには、その軍隊の一部あるいは全軍がリッチモンドとピーターズバーグを離れ、ダンビルあるいはおそらくリンチバーグで食料や物資を補給し、ノースカロライナ州で北軍ウィリアム・シャーマン少将の軍に対抗しているジョセフ・ジョンストン将軍の軍隊と合流しなければならないことが分かっていた。南軍が即座にシャーマン軍を破れなければ、グラント軍がシャーマン軍の残りと合流できる前に、グラント軍に対抗するために戻って来ることになるはずだった。 1865年3月28日から29日の夜に始まった北軍の攻勢により、ルイス農園の戦い、ホワイトオーク道路の戦い、ディンウィディ・コートハウスの戦いと続き、4月1日のファイブフォークスの戦いと4月2日の第三次ピーターズバーグの戦いによって、グラントの北軍は遂にピーターズバーグの防衛線を突破した。同じく4月2日午後に起きたサザランド駅の戦いで、北軍のネルソン・マイルズ准将の指揮する師団がサウスサイド鉄道の最後の防衛線を突破し、南軍の供給線と退路をも遮断した。リー将軍の北バージニア軍は、4月2日から3日にかけての夜中にピーターズバーグとリッチモンド両市から脱出し、ダンビルへの行軍を開始した。その先はノースカロライナ州でウィリアム・シャーマン少将の指揮する北軍の侵攻を遅らせようとしていたジョセフ・ジョンストンの軍隊と合流することが期待されていた
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