ピーターズバーグとクレーター
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「第9軍団 (北軍)」の記事における「ピーターズバーグとクレーター」の解説
コールドハーバーの戦いの最中の1864年6月9日、クリッテンデンは自身の要請によって第1師団長を退き、ジェイムズ・レドリー(James H. Ledlie)准将が師団長となった。第二次ピーターズバーグの戦いでの最初の突撃となった6月17日、軍団は輝かしい攻撃を実施した。ポッターの師団は南軍前線を突破、一旦は確保したが、適切な支援が得られなかったために手放さざるを得なかった。翌日も同様の攻撃を実施したが、ポッターとウィルコックス師団の損害率は異常に高かった。損害は、戦死497人、戦傷3,232人、行方不明262人の合計2,991人に達した。戦死者の中には工兵部隊の指揮官であるジェイムズ・モートン(James St. Clair Morton)准将が含まれていた。 南軍の防衛陣地は突撃で抜くには強固過ぎた。南軍は塹壕を掘り、その後10ヶ月間続く包囲戦に備えた。6月19日、それまで後方任務についていて不在であった、フェレーロの黒人兵からなる第4師団が軍団に加わり、他の3個師団と共に、塹壕に入った。第9軍団の前線の一部は敵の防御陣地に非常に接近しており、間断なく敵の砲火にさらされたため、毎日のように死傷者が出た。他の軍団が担当する前線は比較的静かであったが、第9軍団の兵士は常に注意を怠らない必要があり、また死に直面していたため、大変な緊張を強いられた。南軍は、フェレーロの黒人師団の存在のために、必要以上に第9軍団に圧力をかけたと思われる。 第9軍団は悪名高いクレーターの戦いで主役を演じた。この戦いでは、長い坑道を南軍防御陣地まで掘り進み、そこを爆破するというものであった。この坑道は、ポッター師団の第48ペンシルベニア連隊の元炭鉱労働者によって掘り進められ、4トンの火薬を爆発させることに成功した。この爆発により巨大なクレーターができたが、続く突撃は失敗した。元々突撃はフェレーロの黒人兵が実施する予定で、クレーターの淵に沿って突撃する訓練を受けていた。しかし、突撃直前に、グラントとミードは、政治的な理由から黒人師団ではなく白人師団を使うようにバーンサイドに命令した。結果としてレドリーの第1師団が担当することとなったが、兵士はこの攻撃のための訓練を受けておらず、レドリー自身も酒に酔って後方にいた。兵士たちはクレーターの中央に進んでしまい、クレーターの淵に陣取る南軍兵士からの良い的になってしまった。フェレーロの黒人師団は後方でよく戦ったが、成功の機会は無かった。第9軍団の損害は3,475人に達し、その内訳は戦死473人、戦傷1,646人、行方不明1,356人であった。直後にレドリーは解任され、第1師団長には第23軍団の第2師団長であったジュリアス・ホワイト(Julius White)准将が就任した。 1864年8月13日、バーンサイド休暇扱いとされ、軍団に戻ることはなかった。パークが軍団長となり、戦争終了までその任にあった。8月19日-21日のグローブタバンの戦いでは、ホワイト、ポッター及びウィルコックスの師団が参戦し、相当の損害を出した。参加した歩兵は6,000人以下であったが、60人が死亡し315人が負傷した。この時点までに各師団の実働兵力は大きく減少していたため、組織の見直しが必要となった。ホワイトの第1師団は解散となり、所属連隊はポッターとウィルコックスの師団に振り分けられた。師団番号も変わり、ウィルコックス師団が第1師団、ポッター師団が第2師団、フェレーロの黒人師団が第3師団となった。しかし12月にはフェレーロの師団は軍団を離れ、多くの連隊は新設の黒人兵のみで構成された第25軍団に配属された。フェレーロ自身はバミューダ・ハンドレッドでの特設部隊の司令官となった。
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