ピーターズバーグ、アポマトックス、終戦
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「ジョージ・ヒューム・ステュアート」の記事における「ピーターズバーグ、アポマトックス、終戦」の解説
後の1864年夏、ステュアートは捕虜交換の対象となって釈放され、北バージニア軍のジョージ・ピケット少将師団で1個旅団の旅団長に復帰した。ステュアートの旅団はバージニア第9、同第14、同第38、同第53、同第57歩兵連隊で構成され、ピーターズバーグ包囲戦(1864年6月9日-1865年3月25日)のときはジェームズ川北の塹壕を任された。南北戦争のこの段階までに、南軍の物資に関してはリー軍が飢え始めるまでに不足していた。食物泥棒が深刻な問題になっていた。ステュアートは部隊兵の物資が略奪者に盗まれないように、ピーターズバーグの補給所に武装した衛兵を送る必要があった。 1865年3月29日から4月9日までのアポマトックス方面作戦のとき、ピケットの師団にあって、その旅団を率い続けた。4月1日に起きたファイブフォークスの戦い、4月6日に起きたセイラーズクリークの戦いという2つの戦いで、事実上南軍の抵抗が終わった。ファイブフォークスの戦いのときに、ピケット将軍は魚のシャドを焼くために気を引かれており、その間ステュアートが歩兵部隊の指揮を任され、北軍大部隊の襲撃の切っ先を受けることとなった。ピケットの10,000名の部隊に対し、北軍はフィリップ・シェリダン少将が約30,000名を率いていた。その結果は、前年のスポットシルバニアよりも更に悲惨なものになった。少なくとも5,000名がシェリダン軍の捕虜になった。南軍が抵抗を終えるのは時間の問題になった。セイラーズクリークの戦いでは、リーの飢えて疲れ切った軍隊がバラバラになった。リーは道路を叫びながら移動する残存兵を見て、ウィリアム・マホーン少将の前で、「神よ、我が軍は崩壊したのか?」と叫んだ。これにマホーンは「いいえ将軍、ここにその任務を果たすべくした部隊がいます」と答えた。 ステュアートは最後まで戦い続け、最後は1865年4月9日、アポマトックス・コートハウスでリー将軍と共に、北軍のユリシーズ・グラント中将に降伏した。リー軍には当初146個旅団があったが、このときは22個旅団が残っているのみであり、その1個だった。メリーランドのある古参兵に拠れば、「この戦争で彼(ステュアート)ほど南部のために完全に一貫してその持っている能力とエネルギーを使った者は居なかった」と言わしめた。
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