北軍の攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/29 08:50 UTC 版)
ハッテラス入り江の戦いで北軍がハッテラス島を占領した直ぐ後で、アンブローズ・バーンサイド准将は、漁師や造船工など北部州の海に関係ある人々からなる海岸師団を編成し海岸地域の攻撃に用いる考えを推進し始めた。そのような者達は既に船に慣れておりそれ故に水陸協働作戦に向けて訓練が容易になると理由付けた。バーンサイドは総司令官のジョージ・マクレランと親密な仲であったので、その考えを傾聴してもらえた。当初バーンサイドはマクレランや陸軍省の手近にあるチェサピーク湾で展開する考えだったが、間もなくロアノーク島を手始めとするノースカロライナ州内海への攻撃計画に変わった。この目標変更の語られない理由は北軍寄りの感情がノースカロライナ州では抑圧されており、ここに侵攻すればノースカロライナ人がアメリカ合衆国への忠誠を表明させることができるという誤解に基づいていた。計画が具体化されたとき、ノースカロライナ州侵攻はバーンサイド遠征と呼ばれることになった。 徴兵が進み、バーンサイドは海岸師団を3個旅団に編成し、陸軍士官学校時代からの僚友3人に率いさせた。ジョン・G・フォスター准将が第1旅団、ジェシー・リー・リノ准将が第2旅団、ジョン・G・パーク准将が第3旅団長となった。1862年1月初め、13,000名近い兵士が任務の準備を終えた。 海軍が南軍の砲台を抑えるために必要とされる大砲の大半を供給することになったが、バーンサイドは陸軍の統御する砲艦を数隻持つことに決めた。これは直ぐに両軍の間で幾らかの摩擦を呼んだ。海軍は海洋を航行できる堅牢さがあり、同時に水深約8フィート (2.4 m) と考えられる浅い入江を通過できる喫水の浅い艦船を持っていなかった。それ故に転換に適した商船を買う必要があり、まさに同じ時にバーンサイドとその代理人もその船舶を求めて交渉していた。海軍の水兵はより経験を積んでいたので、より適した船舶の大半を手に入れることができた。陸軍の方にはほとんど外洋を航行できないようなオンボロの船舶の寄せ集めしか残っていなかった。遠征隊が緒に就く時までに、海軍は20隻の砲艦を、陸軍は9隻の砲艦を準備した。この艦隊に、船舶用榴弾砲を載せ、砂袋や秣桶で防御を施して浮き砲台に転換した数隻の運河用ボートが付けられた。遠征艦隊全体では108門の大砲が備えられた。 バーンサイドの代理人たちは砲艦を購入する一方で、輸送用に使う他の艦船も購入または賃貸した。兵士達と遠征用輸送船はアナポリスに集合した。1月5日に乗船を始め、9日には出港し、チェサピーク湾口近くのモンロー砦で落ち合うという命令を受けていた。そこで海軍の派遣部隊と合流し、1月11日には出帆した。このときまでバーンサイドとその直属の参謀のみが最終的目的地を知っていた。海上に出て各艦船の艦長が封印された命令書を開封し、その船がハッテラス岬近くに進むことを知った。
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