北軍の準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 07:47 UTC 版)
「ジャクソン砦・セントフィリップ砦の戦い」の記事における「北軍の準備」の解説
陸地にある砦は昔から海軍の大砲による攻撃では落とせないと考えられていたが、1861年11月7日のサウスカロライナ州ポートロイヤルの戦いで、幾らか弱点が見えてきていた。この戦闘の後、北軍海軍長官補佐グスタブス・V・フォックスは、南軍の海岸にある陣地に対して海軍を攻撃に使うよう圧力を掛け始めた。特に南部の大型都市ニューオーリンズ市に対してはメキシコ湾から襲撃するのが望ましいと強調していた。フォックスは、臼砲によって砦を完全に破壊できないまでも弱めてしまえば、比較的少ない陸軍部隊で砦を攻撃できると提案した。砦の力を落とし、陸軍が攻撃を掛けている間であっても、海軍が砦を通り過ぎ、ニューオーリンズ市に直接攻撃できるようになると主張した。 当初陸軍は総司令官のジョージ・マクレランという名で、この作戦に反対した。作戦の成功のためには最低3万とも5万とも考えられる部隊が必要になると考えられ、それは他の作戦、特にマクレランが当時指揮していたリッチモンドに対する半島方面作戦から戦力を割くことになると主張した。しかし、海軍長官のギデオン・ウェルズが政治家将軍のベンジャミン・バトラーをバトラーの名で遠征を実行させるといううたい文句で引き入れたときに陸軍の反対は無視された。ウェルズは、バトラーの支持を得て、エイブラハム・リンカーン大統領を説得し、作戦実行の命令を出させることができた。1862年2月23日、バトラーは「ニューオーリンズ攻撃において海軍と協力することを使命とする」陸上部隊の指揮にあたると告げられた。支配下に使える勢力はマクレランが当初推計していたよろもかなり削られ、僅か18,000名になっていた。 作戦を進行する前に海軍の編成も変更しなければならなくなった。1861年12月23日、メキシコ湾封鎖戦隊が東メキシコ湾と西メキシコ湾に分割された。西メキシコ湾封鎖戦隊を指揮させるためにウェルズ長官はデヴィッド・ファラガット海軍大佐を選んだ。その新任指揮官は1862年2月20日にメキシコ湾のシップ島に到着した。この日を方面作戦の開始日と考えることができる。 ファラガットには南軍から課された問題以外に2つの問題を解決する必要があった。1つはバトラーとその陸軍であり、単純にバトラーを無視することで解決した。陸軍はファラガットの作戦に入っていなかった。2つ目の問題はそれほど容易に解決できなかった。ファラガットの戦隊の一部は、ファラガットの乳兄弟であるデイビッド・ディクソン・ポーターが指揮する半自立の臼砲スクーナー船団だった。ポーターは海軍長官補佐のフォックスに話が通じる陰謀家であり、ファラガットは臼砲が無用だと証明されると個人的に強い信念を持っていたにも拘わらず、その臼砲を試させるしかなかった。 3月半ば、ファラガットは河口の砂州越しに艦船を動かし始めた。これは事故なしに進んだ。川の深さは予想された18フィート (5.8 m) ではなく、15フィート (4.5 m) しかなかった。少なくとも遠征隊の1隻、USSコロラドは喫水が深くて入れなかった。コロラドが川に入れなかったことで提示された、ファラガットにとって最も重大な問題は、使える戦力が減ったことではなく、時間の浪費の方が大きかった。コロラドが減ったことで、砂州の内側に入った戦隊は6隻の艦船と12隻の砲艦となった。 戦隊の艦船が無事に川に入った後、ポーターの26隻の臼砲スクーナーとそれに伴う艦船も3月18日から問題なく川に入った。翌月、ファラガットは砦の戦力を見極め、その射程距離を測り、水路にあるその他の障害の性質を判断し、最も効果的と考えられる位置に臼砲搭載船を配置し、艦船を戦闘状態に置いた。砦や南軍の砲艦から間歇的に砲撃がある中で、海軍に割り付けられ上陸して砦を遠距離から測量するように手配された沿岸調査局の兵士が、砲艦が水路のどこに停泊すべきかを示す浮標を置いた。4月18日、準備作業が完了した。
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