リーの右腕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/03 04:21 UTC 版)
「ストーンウォール・ジャクソン」の記事における「リーの右腕」の解説
バレー戦役の終結後、ジャクソン軍はリーの指揮下に入り、北バージニア軍の第2軍団に位置づけられた。以後、優秀な部下に別働隊を与えて行動させるリーの作戦指揮において、ジャクソンは不可欠の存在となる。ジャクソン軍団は直ちにリッチモンド防衛のために呼び戻され、ビーバーダム・クリークの戦い(6月26日)に駆けつける。マクレランはこれを南軍の新手の到着と誤認し、南軍の総兵力を過大評価して半島戦役の幕引きを決断する。このマクレランの撤退は南北戦争の終結を3年先延ばししたとも言われる。 だが、これに続く七日間の戦い(6月25日-7月1日)でのジャクソン軍団の活動は精彩を欠いた。ゲインズミルの戦いとサベイジ駅の戦いでは戦場への到着が遅れ、ホワイトオーク湿地の戦いでは決定的な戦機を逃した。マルヴァーンヒルの戦いでは無謀な正面攻撃を行い多くの損害を受けている。七日間の戦いにおけるジャクソン軍の不活発さについては批判のあるところである。ただ、このときジャクソン軍団はバレー戦役以来の機動につぐ機動で消耗しきっていたことも事実である。 第二次ブルランの戦い(8月28日-30日)ではジャクソン軍団はポープ率いる北軍の側面を迂回して物資集積拠点をおさえ、北軍の攻撃を誘いこれを撃破した。勝利の勢いを駆って実施された北部侵攻作戦(メリーランド戦役)ではジャクソン軍団は兵器工廠のあったハーパーズ・フェリーを占領するが、アンティータムの戦い(9月17日)で大きな損害を受け作戦は失敗に終わる。だがその後のフレデリックスバーグの戦い(12月11日-15日)ではジャクソン軍団は北軍の攻勢を良く防ぎきり、南軍を圧倒的勝利に導いた。
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