北軍の序盤の攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/23 16:25 UTC 版)
「第一次ブルランの戦い」の記事における「北軍の序盤の攻勢」の解説
7月21日の朝、午前2時半にマクドウェルはハンターとハインツェルマンの師団合計約12,000名をセンタービルから進発させ、ウォーレントン・ターンパイクを通って南西に移動し、続いて北西に折れてサドリー・スプリングスに向かわせた。タイラー師団約8,000名は直接ストーン・ブリッジに向かった。経験の浅い部隊は直ちに兵站の問題に直面した。タイラー師団がターンパイク上で主力である側面攻撃軍の前進を妨害することになった。側面攻撃隊が見付けたサドリー・スプリングスに向かう道路は荷車が1台やっと通れるような所が有り不適切だった。ブルランを渡り始めたのはやっと9時半であった。タイラー軍は6時にストーン・ブリッジに到着した。 午前5時15分、リチャードソンの旅団はミッチェル浅瀬越しに南軍の右翼に向けて大砲を放った。そのうちの幾つかがまだ朝食を食べていたボーリガードの本部、ウィルマー・マクリーンの家に当たり、先制攻撃を打たれたことを知らされた。それにも拘わらず、当初の計画に従って北のセンタービルに残っている北軍に対して攻撃の構えをするよう命じた。お粗末な命令や伝達の不備でその命令は実行されなかった。ボーリガードはリチャード・イーウェル准将の旅団に先陣を切らせるつもりだったが、ユニオンミルズ浅瀬にいたイーウェルは、「待機し・・・命令が来れば前進する用意をしておく」よう命令を受けていた。デイビッド・ジョーンズ准将の旅団はイーウェルを支援して攻撃を始めることになっていたが、単独で前進していることになった。テオフィラス・ホームズ准将の旅団も支援することになっていたが、命令は全く届かなかった。 一方、南軍左翼に集結した北軍主力20,000名の前に立ちはだかったのはネイサン・"シャンクス"・エバンス大佐の旅団1,100名に過ぎなかった。エバンスは部隊を割いて、橋でタイラー師団の脅威を直接抑えさせたが、その先方である北軍ロバート・シェンク准将の旅団の弱い攻撃は単なる見せかけだと疑い始めた。ボーリガードの通信隊長であり、8マイル南西のシグナルヒルから観察しているエドワード・アレクサンダー大尉から、北軍主力がサドリー・スプリングスを通って南軍の側面に回ろうとしていることを知らされた。戦闘で初めて使われた旗を用いた信号であったが、アレクサンダーは「貴隊の左翼を見張れ、配置が変わっている」という伝言を送った。エバンスは急遽900名を連れてストーン・ブリッジ正面から移動し、マシューズヒルの斜面に陣取った。以前の陣地よりも北西で少し高くなった所だった。 エバンスは、バーナード・ビー准将とフランシス・バートウ大佐の2個旅団から援軍を受け、側面を2,800名で固めた。この部隊が、ハンター師団の先発隊であるアンブローズ・バーンサイド准将の旅団がブルラン・クリークの浅瀬を渡りヘンリーハウスヒルの北端にあるヤングズブランチを越えて前進する動きをうまく遅滞させた。しかし、タイラー師団のウィリアム・シャーマンが率いる旅団が守備隊のいない浅瀬を渡り、南軍守備隊の右翼を衝いた。この急襲がバーンサイドとジョージ・サイクス少佐による攻撃とかみ合って、午前11時半直前に南軍を崩壊させ、南軍は算を乱してヘンリーハウスヒルまで後退した。
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