北軍の前進とリーズミル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 04:51 UTC 版)
「ヨークタウンの包囲戦 (南北戦争)」の記事における「北軍の前進とリーズミル」の解説
1862年4月4日、北軍はマグルーダーの当初の防御線を通過したが、翌日より効果的なウォーウィック防御線に遭遇した。地形の性格のために南軍の正確な配置を知ることは難しかった。誤った情報によってマクレランは南軍の防衛線の戦力が40,000名であり、ジョンストンは援軍60,000名を伴って直ぐにでも到着するものと想像した。マグルーダーは戦前に素人俳優であり、歩兵隊や砲兵隊を騒々しく動かすことで、その防衛軍が実際よりも多く見えさせるこれ見よがしの行動を採り、マクレランの混乱を増長させた。 北軍の第4軍団は先ず4月5日にリーズミルでマグルーダー前線の右側面に遭遇した。その土盛り防御物にはラファイエット・マクローズ少将の師団が配置されていた。第7メイン歩兵連隊が散兵として配置され、防御物の約1,000ヤード (900 m) 手前で止まり、そこに間もなくジョン・ダビッドソン准将の旅団と砲兵が加わった。砲撃戦が数時間続き、キーズは偵察を命じ、また援軍も到着したが、歩兵同士の戦闘は無かった。4月6日、第6メインおよび第5ウィスコンシン連隊の兵士がウィンフィールド・スコット・ハンコック准将の指揮でダム1号周辺を偵察したが、そこはマグルーダーがウォーウィック川を広げて水の障害を設けていた。北軍は南軍の哨兵を駆逐し何人かを捕虜にした。ハンコックはこの地域が南軍前線の弱点だと考えたが、マクレランからの命令でそれ以上つけこめなかった。キーズはマグルーダーの演出の多い部隊の動きに惑わされ、ウォーウィック防御線は攻撃で制圧できないと信じ込み、マクレランにもそのように告げた。 南軍にとっては驚きであり、エイブラハム・リンカーン大統領にとっては困惑させられたことに、マクレランはそれ以上の偵察を行わずに攻撃しないことを選択し、マグルーダーの防衛線に平行に塹壕を掘らせ、ヨークタウンを包囲するよう命じた。マクレランはキーズの報告やヨークタウンの町近くの敵勢力に関する報告に反応したが、アービン・マクドウェル少将の第1軍団が、マクレランの計画のように半島で合流するのではなく、ワシントンD.C.防衛に留まるという報せも受け取った。その後の10日間、マクレランの部隊は塹壕を掘り続け、マグルーダーは着実に援軍を受け取っていた。4月半ばまでに、マグルーダー軍は35,000名となり、かろうじてその防御線を守れるまでになった。 マクレランはその勢力が敵より勝っていることを疑ったが、その大砲の優位については疑わなかった。ヨークタウン包囲の準備には70門以上の重砲を備えた15の砲台を用意した。重砲は200ポンドパロット砲2門、100ポンドパロット砲12門、残りは20ポンドから30ポンドのパロット砲と4.5インチ・ロッドマン攻城戦用施条砲だった。これらに8インチから13インチまでの海岸迫撃砲41門が加わり、その重さは10トン以上、砲弾の重さは220ポンド (100 kg) もあった。もしこれらが同時に発砲された場合、1回に7,000ポンド (3,200 kg) 以上の砲弾を敵陣に放り込むことになった。 陸軍が塹壕に入っている間、北軍気球司令部の飛行士タデウス・ロー教授がコンスティチューション号とインターピッド号の2つの気球を使って空からの偵察を行った。4月11日、インターピッド号は第3軍団の師団長フィッツ・ジョン・ポーター准将を乗せて浮上したが、予想外の風で敵の前線上空まで運ばれてしまい、逆風で無事帰還できるまで北軍指導部を大いに慌てさせた。南軍のジョン・ブライアン大尉はヨークタウンの前線上空に熱気球を飛ばし、同じような風の悪戯を経験した。
※この「北軍の前進とリーズミル」の解説は、「ヨークタウンの包囲戦 (南北戦争)」の解説の一部です。
「北軍の前進とリーズミル」を含む「ヨークタウンの包囲戦 (南北戦争)」の記事については、「ヨークタウンの包囲戦 (南北戦争)」の概要を参照ください。
- 北軍の前進とリーズミルのページへのリンク