北軍の指揮とは? わかりやすく解説

北軍の指揮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:00 UTC 版)

エイブラハム・リンカーン」の記事における「北軍の指揮」の解説

サムター要塞陥落したあと、リンカーン直接戦争指揮することと、反乱鎮圧するために全体戦略策定することの重要性認識した前例のない政治的および軍事的危機直面し前例のない権限を使う最高司令官として対応した戦争指揮権拡大しアメリカ連合国外港すべてを封鎖し連邦議会による予算割り当て以前資金支出し人身保護令状発行中止したあとはアメリカ連合国同調者見なされる数多くの者を逮捕させ、収監させた。これらの行動憲法違反ではあるものの、のちに連邦議会北部大衆支持得た。さらに、境界にある奴隷州の強力な北軍同調者補強し、この戦争国際紛争とならないようにしておくために奮闘する必要性があった。 リンカーン呼びかけ応え軍隊が南のワシントン向かった4月19日ボルティモア鉄道分岐点占領していた分離派暴徒首都に向かう軍隊攻撃したBaltimore riot of 1861)。ボルティモア市長ジョージ・ウィリアム・ブラウン(英語版)などメリーランド州政治家が、令状なしに逮捕され収監された。これはリンカーン人身保護令状発行停止していたためだったメリーランド州分離派グループ指導者ジョン・メリーマン(英語版)は最高裁長官ロジャー・トーニーに、リンカーン審問なしにメリーマンを拘束しようとしているのは違法だとして、人身保護令状発行請願した。トーニーは令状発行することでメリーマンの解放命じたが、リンカーンはそれを無視したリンカーンにとって戦争遂行がほかの何よりも優先されるものであり、多く時間意識戦争遂行向けた初めから戦争成功に導くためには二大政党双方支持不可欠であり、北軍の指揮官に指名する者を選ぶときなどは、共和党員を選ぼう民主党員選ぼうと、いかなる妥協議会反対側の党派疎遠な関係にしてしまうことは明らかだった1861年6月3日スティーブン・ダグラス腸チフス急死すると、北部民主党指導者不在となり、カッパーヘッドなど北部戦争反対派が民主党内の主導権握りリンカーン奴隷問題妥協拒んでいることを批判したリンカーン戦争の期間を通じて北部民主党のカッパーヘッド(英語版)(アメリカマムシ)と呼ばれた反戦派から激しい、また悪罵攻撃受けたリンカーンヤンキー脅威そのもの見ていた南部の者は言わずもがなだった。 一方急進派共和党奴隷制廃止動きが鈍いと批判した1861年8月6日南軍戦争遂行支援するために使われる奴隷没収し解放する司法手続き認め没収法に署名した。この法は実際にはほとんど効力を持たなかったが、南部奴隷制廃止に対して政治的支援信号になった。 その8月下旬1856年大統領選挙共和党候補にもなったジョン・C・フレモント将軍が、リンカーン相談なくミズーリ州戒厳令発したその内容は、武器持っている分かった市民軍法会議かけられ銃殺される、反乱軍助けている個人奴隷解放される、というものだったフレモントはすでに不正と汚職告発を受け西部方面軍指揮怠っているという嫌疑かけられていた。リンカーンフレモント宣言取り消させた。フレモント奴隷解放政治的なものであり、軍事的に不要で法にかなっていないと考えた北軍メリーランド州ケンタッキー州およびミズーリ州からの徴兵数は4名以上増加した1861年遅くトレント号事件ではイギリスとの戦争のおそれがあった。アメリカ海軍公海イギリス商船トレント号を停止させアメリカ連合国使節2人捕獲したイギリス激しく抗議したが、アメリカ合衆国民は喝采送ったリンカーンその2人を釈放することで問題解決しイギリスとの戦争回避させた。リンカーン外交政策経験がなかったために、当初人任せだった。外交官任命外交政策に関することは国務長官スワード任せた。しかし、トレント号事件対すスワード初期反応あまりにけんか腰だったので、リンカーン上院外交問題委員長イギリスとの外交専門家だったチャールズ・サムナーに処理を任せたリンカーン軍事専門用語を学ぶために、ヘンリー・ハレック著書軍事科学基礎」を議会図書館から借りて研究したワシントンD.C.陸軍省に入る電報による報告労を惜しまず目を通した軍事行動すべての面に目を光らせており、知事達と相談し過去成功体験(および出身州と支持政党)を元に将軍達選定した1862年1月陸軍省非効率さと不当利得行為について多く苦情が出ると、サイモン・キャメロン代えてエドウィン・スタントン陸軍長官据えたスタントンは、リンカーン指導下では反奴隷共和党員に転じた多く保守派民主党員一人だった(1860年大統領選挙ではブレッキンリッジ支持した)。戦略に関しては、2つ優先事項求めたワシントン守り固めることと、迅速決定的な勝利という北部要求満足させるために攻撃的な姿勢を貫くことだった。北部の主要新聞編集者90以内勝利を予測したリンカーンは週2回閣僚との午後ミーティングを開くこととした。妻のメアリーリンカーンあまりに懸命に働くことを心配していたので、馬車乗ることを強制することがあった。リンカーン参謀総長ヨーロッパ軍事学者アントワーヌ=アンリ・ジョミニ弟子であるヘンリー・ハレックから、ミシシッピ川のような戦略的地点支配することの重要さ学んだ。またミシシッピ州ビックスバーグ重要さをよく知っており、単に領土占領するよりも敵軍を倒すことの必要性理解していた。

※この「北軍の指揮」の解説は、「エイブラハム・リンカーン」の解説の一部です。
「北軍の指揮」を含む「エイブラハム・リンカーン」の記事については、「エイブラハム・リンカーン」の概要を参照ください。

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