セントルイス武器庫
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「ナサニエル・ライアン」の記事における「セントルイス武器庫」の解説
1861年3月、ライアンは第2アメリカ歩兵連隊のD中隊を指揮してセントルイスに到着した。当時、ミズーリ州の民衆と政府は北部と南部の争いについて中立の立場を採ろうとしていたが、クレイボーン・F・ジャクソン知事は強力な南部の同調者であり、州議会の多くもそうだった。ライアンは、もし州が脱退を決め、北軍がセントルイスの北軍武器庫に十分な守備兵力を持っていなければ、ジャクソンはそこを占領しようとしているのではないかと痛切に心配した。ライアンは防御力を高めようとしたが、西部方面軍のウィリアム・S・ハーニー准将を含めその上官たちからの反対に遭った。そこでフランシス・プレストン・ブレア・ジュニアとの友情を利用して、自分を武器庫指揮官に指名させた。南北戦争が勃発すると、エイブラハム・リンカーン大統領は南軍を押さえ込むために軍隊を要求し、ミズーリ州には4個連隊を供給するよう求めてきた。ジャクソン知事はこの要請を拒否し、故郷の防衛のために訓練するという既定の目的の下でセントルイス郊外にミズーリ州兵を招集するよう命じた。 ライアン自身は北軍寄りの民兵組織であるセントルイス・ワイド・アウェイクに広範に関わってきており、その武器庫から武装させて北軍の1隊として加わろうと考えた。ライアンは武器庫の指揮権を得ると、夜に紛れてワイド・アウェイク隊を武装させた。武器庫の過剰な武器の大半は密かにイリノイ州に移動させた。南軍がバトンルージュのアメリカ軍武器庫で捕獲した大砲を運び出して、セントルイスのミズーリ州民兵キャンプに密かに移したことに気付いていた。ライアンは農夫人に変装して州兵キャンプを探ったと言われ、続いてジャクソンがミズーリ州兵のために武器庫を奪おうという計画を暴露したと主張した。5月10日、ミズーリ志願兵連隊と第2アメリカ歩兵連隊をそのキャンプに向かわせ、州兵の降伏を強いた。ライアンが捕虜を市内を通ってセントルイス武器庫まで行軍させるとセントルイスで暴動が起こった。この出来事がキャンプ・ジャクソン事件を誘発し、ライアンの部隊が群がる民衆に発砲して少なくとも75人を負傷させ、28人を殺した。連邦軍兵士2名と民兵3名も殺され、他に負傷した者もいた。どちらが最初に発砲したかが論争となっており、それは酔っ払った暴徒からだったという証言もあるし、謂れの無い攻撃だったと主張する者もいる。ライアンはそれでも准将に昇進し、ミズーリ州北軍の指揮を任された。ライアンは7月2日に西部軍指揮官に就いた。
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