セントルイス時代
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「アリゾナ・カージナルス」の記事における「セントルイス時代」の解説
1959年シーズン終了後、フランチャイズをセントルイスに移転し、セントルイス・カージナルス(St. Louis Cardinals、MLB球団のセントルイス・カージナルスと同じ愛称)と改称した。この移転には1960年からNFLに対抗するAFLが誕生する際にセントルイスに球団が設立されるのを阻止する目的も含まれたものであった。セントルイスへの移転はNFLのオーナー会議にかけられて12人のオーナーによる全会一致で移転は承認された。この時代のスター選手はラリー・ウィルソン、チャーリー・ジョンソン、ジム・バッケン、ソニー・ランドル、ジム・ハートらである。 1962年にバイオレットは亡くなり息子のチャールズ・ビドウィル・ジュニア、ビル・ビドウィルがチームを運営するようになった。1964年、ビドウィルオーナーはアトランタにチームを移転することを検討したが新スタジアムを建設するので留まるようセントルイス市当局の訴えを受け、移転は白紙となりアトランタにはアトランタ・ファルコンズが新フランチャイズとして誕生することとなった。 1965年チームは4勝1敗と好スタートを切ったが5勝9敗でシーズンを終えた。1966年も一時8勝2敗1分でイースタン・カンファレンストップを走ったがそこから3連敗して8勝5敗1分となりプレーオフ出場は果たせなかった。1967年チームはイースタン・カンファレンスのセンチュリー・ディビジョンに所属することとなった。この年は6勝7敗1分で終えた。1968年、9勝4敗1分の好成績を残したがプレーオフ出場は叶わなかった。1969年は4勝9敗1分に終わったがこの年から14シーズン、カージナルスでプレーし後にプロフットボール殿堂入りを果たしたロジャー・ウェールリがミズーリ大学から入団し先発セイフティとして活躍した。1970年のNFLとAFLの統合した際にNFCの東地区に所属することとなった。 1970年11月、チームはヒューストン・オイラーズ、ニューイングランド・ペイトリオッツ、ダラス・カウボーイズに3試合連続で完封勝利を果たした。コットン・ボウルで行われたマンデーナイトフットボールのカウボーイズ戦では38-0の大勝であった。しかしシーズン最後3試合のニューヨーク・ジャイアンツ、デトロイト・ライオンズ、ワシントン・レッドスキンズ戦に3連敗し8勝5敗1分に終わりプレーオフを逃した。1971年から1973年までは3年連続4勝9敗1分に終わった。なお1972年からビル・ビドウィルが単独オーナーとなり現在までチームを所有している。1つのファミリーがNFLチームを所有している期間としてこれより長いのはニューヨーク・ジャイアンツ、シカゴ・ベアーズだけである。 1972年シーズン終了後、ラリー・ウィルソンが現役を引退、1973年チームにサンディエゴ州立大学からドン・コリエルがヘッドコーチに就任した。1974年、チームは開幕から7連勝を果たしNFC東地区優勝を果たした。チームがプレーオフに出場するのは1948年以来のことであった。プレーオフ、敵地メトロポリタン・スタジアムで行われたミネソタ・バイキングス戦でチームは7-0と先制したがハーフタイム前にFGに失敗するとモメンタムを失い後半開始7分で16失点するなど14-30で敗れた。 1975年もチームは地区優勝を果たしたがロサンゼルス・メモリアル・コロシアムで行われたロサンゼルス・ラムズ戦でローレンス・マッカチオンにNFLのプレーオフ記録となる202ヤードを走られジャック・ヤングブラッド、ビル・シンプソンにインターセプトリターンTDを許すなど23-35で敗れた。この時代チームはダン・ディアードルフ、コンラッド・ドブラー、トム・バンクスといった優れたオフェンスラインに支えられた。この時代のチームは接戦が多くメディアやファンはCardic Cardinals とチームを呼んだ。この時代のスターはウェールリ、メル・グレイ、テリー・メトカーフ、ジム・オーティスであった。 1976年、チームは10勝4敗の好成績を残したが、同じ10勝4敗となった同地区のワシントン・レッドスキンズに2敗しており、NFCのチームとして10勝しながら初めてプレーオフ出場を逃したチームとなった。1977年チームはシーズン途中6連勝を果たしたがその後翌1978年にまたがり12連敗した。この連敗の中には1976年創設されてから26連敗し、ホームではまだ勝ち星をあげていいなかったタンパベイ・バッカニアーズにタンパ・スタジアムで敗れた試合も含まれた。1977年シーズン終了とともにコリエルヘッドコーチ、メトカーフ、ドブラーはチームを去った。 1978年チームはオクラホマ大学を17年間指揮した名将、バド・ウィルキンソンを新ヘッドコーチに迎えた。しかしウィルキンソンは1963年を最後にコーチを引退しており、1978年、チームは開幕から8連敗し6勝10敗、1979年も3勝10敗の成績で解任され最後の3試合はラリー・ウィルソンが暫定ヘッドコーチに就任し5勝11敗で終えた。この時代チームはドラフトの失敗や不幸な出来事が重なった。1978年のドラフト1巡で指名されたスティーブ・リトルは1980年に交通事故で選手生命を失い、1979年のトレーニングキャンプ中にJ・V・ケインが心臓発作で死去した。 カージナルスは28シーズンをセントルイスで戦ったがその間プレーオフに出場したのは1974年、1975年、1982年のわずか3回であり187勝202敗13分、勝率.481に終わった。 1982年から1984年までチームは3年連続で勝ち越した。この時代のスターはQBニール・ロマックス、WRロイ・グリーン、RBオーティス・アンダーソンである。1982年ストライキで短縮されたシーズンを5勝4敗で終えたチームは16チームが出場することとなったプレーオフに出場したがグリーンベイ・パッカーズに16-41で敗れた。 1983年、チームはこの年第18回スーパーボウルを制するオークランド・レイダースを破るなど8勝7敗1分の成績を残した。1984年、チームは最終週のワシントン・レッドスキンズに勝利すればプレーオフ出場を果たせるところであったが逆転を狙ったFGが失敗し27-29で敗れた。1985年、チームは3勝1敗と好スタートを切ったが5勝11敗に終わり、6シーズンチームの指揮を執ったジム・ハニファンはチームを去った。彼の後任となったのがトム・ランドリーのもとでアシスタントコーチを務めたこともあるテキサス農工大学の元ヘッドコーチ、ジーン・スターリングである。1986年、4勝11敗1分、1987年、7勝8敗とチーム成績は改善された。この年のタンパベイ・バッカニアーズ戦では3-28と25点差リードされた状況から第4Qに28点を取り、31-28と逆転勝利をおさめた。これは第4Q最大得点差からの逆転勝利としてNFL記録となっている。 この時期、老朽化したブッシュ・メモリアル・スタジアムやチーム成績の影響で観客数は伸び悩み、ビドウィルオーナーはボルチモア、フェニックス、ジャクソンビルなどへの移転を検討した。いったんは地元ファンの反対もあり計画は中止されたが1987年ホーム最後のゲームとなったニューヨーク・ジャイアンツ戦は29,623人の観客しか入らなかった。そして翌1988年にアリゾナ州フェニックス都市圏に移転し、フェニックス・カージナルス(Phoenix Cardinals)と改称した。
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