セントルイス時代とは? わかりやすく解説

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セントルイス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 02:29 UTC 版)

アリゾナ・カージナルス」の記事における「セントルイス時代」の解説

1959年シーズン終了後フランチャイズセントルイス移転しセントルイス・カージナルスSt. Louis CardinalsMLB球団セントルイス・カージナルスと同じ愛称)と改称した。この移転には1960年からNFL対抗するAFL誕生する際にセントルイス球団設立されるのを阻止する目的含まれたものであったセントルイスへの移転NFLオーナー会議かけられ12人のオーナーによる全会一致移転承認された。この時代スター選手ラリー・ウィルソンチャーリー・ジョンソンジム・バッケン、ソニー・ランドル、ジム・ハートらである。 1962年バイオレット亡くなり息子のチャールズ・ビドウィル・ジュニア、ビル・ビドウィルチーム運営するようになった1964年、ビドウィルオーナーはアトランタチーム移転することを検討した新スタジアム建設するので留まるようセントルイス市当局訴えを受け、移転白紙となりアトランタにはアトランタ・ファルコンズが新フランチャイズとして誕生することとなった1965年チームは4勝1敗と好スタート切ったが5勝9敗でシーズン終えた1966年一時8勝2敗1分でイースタン・カンファレンストップを走ったがそこから3連敗して8勝5敗1分となりプレーオフ出場果たせなかった。1967年チームイースタン・カンファレンスのセンチュリー・ディビジョンに所属することとなったこの年は6勝7敗1分で終えた1968年、9勝4敗1分の好成績残したプレーオフ出場は叶わなかった。1969年は4勝9敗1分に終わったこの年から14シーズンカージナルスプレーし後にプロフットボール殿堂入り果たしたロジャー・ウェールリがミズーリ大学から入団し先発セイフティとして活躍した1970年のNFLAFL統合した際にNFC東地区に所属することとなった1970年11月チームヒューストン・オイラーズニューイングランド・ペイトリオッツダラス・カウボーイズに3試合連続完封勝利果たしたコットン・ボウル行われたマンデーナイトフットボールカウボーイズ戦では38-0大勝であった。しかしシーズン最後3試合ニューヨーク・ジャイアンツデトロイト・ライオンズワシントン・レッドスキンズ戦に3連敗し8勝5敗1分に終わりプレーオフ逃した1971年から1973年までは3年連続4勝9敗1分に終わった。なお1972年からビル・ビドウィル単独オーナーとなり現在までチーム所有している。1つファミリーNFLチーム所有している期間としてこれより長いのはニューヨーク・ジャイアンツシカゴ・ベアーズだけである。 1972年シーズン終了後ラリー・ウィルソン現役引退1973年チームサンディエゴ州立大学からドン・コリエルがヘッドコーチ就任した1974年チーム開幕から7連勝果たしNFC東地区優勝果たしたチームプレーオフ出場するのは1948年以来のことであったプレーオフ敵地メトロポリタン・スタジアム行われたミネソタ・バイキングス戦でチーム7-0先制したハーフタイム前にFG失敗するモメンタム失い後半開始7分で16失点するなど14-30で敗れた1975年チーム地区優勝果たしたロサンゼルス・メモリアル・コロシアム行われたロサンゼルス・ラムズ戦でローレンス・マッカチオンにNFLプレーオフ記録となる202ヤードを走られジャック・ヤングブラッド、ビル・シンプソンにインターセプトリターンTDを許すなど23-35で敗れた。この時代チームはダン・ディアードルフ、コンラッド・ドブラー、トム・バンクスといった優れたオフェンスラインに支えられた。この時代チーム接戦多くメディアファンはCardic Cardinals とチーム呼んだ。この時代スターはウェールリ、メル・グレイ、テリー・メトカーフ、ジム・オーティスであった1976年チーム10勝4敗の好成績残したが、同じ10勝4敗となった同地区ワシントン・レッドスキンズに2敗しており、NFCチームとして10しながら初めプレーオフ出場逃したチームとなった1977年チームシーズン途中6連勝果たしたその後1978年またがり12連敗した。この連敗中には1976年創設されてから26連敗しホームではまだ勝ち星をあげていいなかったタンパベイ・バッカニアーズタンパ・スタジアム敗れた試合含まれた。1977年シーズン終了とともにコリエルヘッドコーチ、メトカーフ、ドブラーはチーム去った1978年チームオクラホマ大学17年指揮した名将、バド・ウィルキンソンを新ヘッドコーチ迎えた。しかしウィルキンソン1963年最後にコーチ引退しており、1978年チーム開幕から8連敗し6勝10敗、1979年も3勝10敗の成績解任され最後の3試合ラリー・ウィルソン暫定ヘッドコーチ就任し5勝11敗で終えた。この時代チームドラフト失敗不幸な出来事重なった1978年ドラフト1巡で指名されスティーブ・リトル1980年交通事故選手生命失い1979年のトレーニングキャンプ中にJ・Vケイン心臓発作死去したカージナルス28シーズンセントルイス戦ったその間プレーオフ出場したのは1974年1975年1982年のわずか3回であり18720213分、勝率.481に終わった1982年から1984年までチーム3年連続勝ち越した。この時代スターQBニール・ロマックス、WRロイ・グリーン、RBオーティス・アンダーソンである。1982年ストライキ短縮されシーズンを5勝4敗で終えたチーム16チーム出場することとなったプレーオフ出場したグリーンベイ・パッカーズに16-41で敗れた1983年チームこの年第18回スーパーボウル制するオークランド・レイダースを破るなど8勝7敗1分の成績残した1984年チーム最終週ワシントン・レッドスキンズ勝利すればプレーオフ出場果たせるところであった逆転狙ったFG失敗し27-29敗れた1985年チームは3勝1敗と好スタート切ったが5勝11敗に終わり、6シーズンチームの指揮を執ったジム・ハニファンはチーム去った彼の後任となったのがトム・ランドリーのもとでアシスタントコーチ務めたこともあるテキサス農工大学の元ヘッドコーチ、ジーン・スターリングである。1986年、4勝11敗1分、1987年、7勝8敗とチーム成績改善された。この年タンパベイ・バッカニアーズ戦では3-2825点差リードされ状況から第4Q28点を取り、31-28と逆転勝利おさめた。これは第4Q最大得点差からの逆転勝利としてNFL記録となっている。 この時期老朽化したブッシュ・メモリアル・スタジアムチーム成績影響観客数伸び悩み、ビドウィルオーナーはボルチモアフェニックスジャクソンビルなどへの移転検討した。いったんは地元ファン反対もあり計画中止されたが1987年ホーム最後ゲームとなったニューヨーク・ジャイアンツ戦は29,623人の観客しか入らなかった。そして翌1988年アリゾナ州フェニックス都市圏移転しフェニックス・カージナルスPhoenix Cardinals)と改称した

※この「セントルイス時代」の解説は、「アリゾナ・カージナルス」の解説の一部です。
「セントルイス時代」を含む「アリゾナ・カージナルス」の記事については、「アリゾナ・カージナルス」の概要を参照ください。

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