1977年シーズン
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1977年も片山はサロメのスポンサーのチームで参戦する。当初はスズキRG500で500ccクラスにも参戦する予定でいたが、RG500が入手できなかったため、250ccクラスと350ccクラスに参戦することになる。今シーズンの初戦はデイトナで、200マイルで3位、100マイル(250cc)で2位となる。 昨シーズン(1976年)は1シーズンでメカニックなどが8人も変わったので、片山は昨シーズン終了後に日本に帰ってからメカニックを探し始める。目星を付けていた人物が今シーズン以降片山敬済のチーフメカニックとしてWGPを転戦することになる杉原真一である。当時杉原は片山義美のマツダ ロータリーエンジンのチューニングを担当するチーフメカニックであったが、片山敬済が何度も頼み込み、WGPに一緒に来てもらえることになった。 その後、ヤマハモーターNVと契約した片山は、新開発の3気筒エンジンと従来の2気筒エンジンの2種類のTZ350をサーキットによって使い分け、日本人初となるWGP350ccクラスのチャンピオンとなる。ただし片山は韓国籍なので、正確には日本のフェデレーションに所属する選手として初の世界チャンピオン、もしくは東洋人初の世界チャンピオンと表現すべきだろう。 片山はユーゴスラビアGPの前にベルギーで行われたインターナショナルレースで転倒して鎖骨を骨折してしまった。ユーゴスラビアGPの予選の日まで一週間もなかったが片山は手術を受け、スチールプレートとボルトで骨折した鎖骨を固定してユーゴスラビアGPに臨み、350ccで優勝しただけでなく、250ccでも2位になり、人々を驚かせた。7月29日・30日、イマトラ(フィンランドGP)で行われた決勝レースでは3気筒TZ350を走らせて優勝し、最終戦を待たずに350ccクラスのチャンピオンが確定し、月刊誌『モト・ライダー』(1977年10月号)の表紙を飾った。このレースでは、3気筒エンジンの状態は悪く、チェッカーフラグが振られる時点では2気筒しか動いていなかった。 3気筒TZ350は実質片山スペシャルで、その後まともに乗りこなせたレーサーは存在しない。チャンピオン獲得後のコメントでも「チャンピオンは取れると思っていた。自分ほどチャンピオン取るために準備や努力をしている人間はいないし、取れなければおかしいとさえ思っていた」と語る(一部『Number』誌より抜粋)。 Rd. グランプリサーキット350ccクラスの結果備考1 ベネズエラ サン・カルロス 出場せず 2 オーストリア ザルツブルクリンク 事故で中止 3 西ドイツ ホッケンハイム 優勝(3気筒) 4 イタリア イモラ 3位(3気筒) 5 スペイン ハラマ 3位(2気筒) ヘアピンが多いコース 6 フランス ポール・リカール 優勝(3気筒) 新フレームを使用 7 ユーゴスラビア オパティヤ 優勝(2気筒) 1週間前に鎖骨複雑骨折 8 ダッチTT アッセン リタイア(2気筒) チェンジペダル折損 9 ベルギー スパ — 350ccクラスのレース無し 10 スウェーデン アンダーストープ 優勝(2気筒) デッドヒート 11 フィンランド イマトラ 優勝(3気筒) 3気筒のうち1気筒が燃焼せず。世界チャンピオン確定。 12 チェコスロバキア ブルノ リタイア ニコ・バッカー製フレームを使用。セッティング出ず。 13 イギリス シルバーストン リタイア 250ccクラスではランキング4位となる。 Rd. グランプリサーキット250ccクラスの結果備考1 ベネズエラ サン・カルロス 出場せず 2 オーストリア ザルツブルクリンク 事故で中止 3 西ドイツ ホッケンハイム リタイア エンジン焼き付き 4 イタリア イモラ 8位 5 スペイン ハラマ 優勝 途中から独走 6 フランス ポール・リカール 8位 一時先頭を走るが、キャブレターの取り付け不備により、片手でキャブレターを押さえながらの走行となる。 7 ユーゴスラビア オパティヤ 2位 1週間前に鎖骨複雑骨折 8 ダッチTT アッセン 6位 9 ベルギー スパ 2位 ニコ・バッカー製フレームを使用 10 スウェーデン アンダーストープ 4位 11 フィンランド イマトラ リタイア 12 チェコスロバキア ブルノ リタイア 13 イギリス シルバーストン リタイア 1970年代初頭にヤマハのワークスライダーであった本橋明泰は次のように語っている。 「片山は立派だ。世界チャンピオンを獲るには、ただレースに速いだけでは駄目で、生活全般にわたって欧米人ライダーと戦えなければならない。そういう意味でも、彼はよくやったと思う」(本橋明泰) しかし、片山の世界チャンピオンシップ獲得は日本ではほとんど知られておらず、1977年シーズンのモータースポーツ記者クラブの年間クラブ賞では、片山は世界チャンピオンになったにもかかわらず選考から外れそうになった。しかし数人の記者が片山のことを知っていたので、そのような事態は避けられた。当時はバイク雑誌でさえ片山を表紙にしたのは月刊誌『モト・ライダー』(1977年10月号)ぐらいであった。当時、WGPを全戦を取材している日本人はフォトグラファーの木引繁雄しかおらず、木引も多額な自己負担をしながら取材をしている状態であった。日本ではライダーもジャーナリストもWGP関連だけの収入では食べていけない状況であった。それだけ日本ではWGPの認知度が低かったのである。泉優二は片山のために記者会見を計画したが、マスコミ関係者を集めることに奔走した。記者会見の会場やコーヒー代などは泉が負担しなけらばならない状況であった。泉は通信社の知人に頼み、片山の世界チャンピオン獲得を配信してもらった。泉は1978年に、ヨーロッパのF2に参戦していた星野一義から「片山さんは、どうやってヨーロッパで戦っているんですか?」と尋ねられたことがある。星野はヨーロッパのドライバーたちの強引な走り方に戸惑っていたようである。片山も1974年のWGP初参戦時に、コーナー進入時にヨーロッパのライダーに強引にイン側に入られ、ヨーロッパのレースの洗礼を受けた。しかし片山はそれに怯むことなく、次の周では同じことをそのヨーロッパのライダーにやり返した。
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1977年シーズン
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「ヘスケス・308E」の記事における「1977年シーズン」の解説
開幕4戦を欠場して第5戦スペイングランプリからの参戦となり、ドライバーはルパート・キーガンとハラルド・アートル(第9戦まで)、ヘクトール・レバーク(第11-13戦)、イアン・アシュレー(第14戦以降)が参戦したが、シーズン全体で計10回も予選落ちを喫し、最高位はキーガンが第12戦オーストリアグランプリでの7位に終わった。
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