1977年シーズンとは? わかりやすく解説

1977年シーズン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 00:56 UTC 版)

片山敬済」の記事における「1977年シーズン」の解説

1977年片山サロメスポンサーチーム参戦する当初スズキRG500で500ccクラスにも参戦する予定でいたが、RG500入手できなかったため、250ccクラスと350ccクラス参戦することになる。今シーズン初戦デイトナで、200マイル3位100マイル250cc)で2位となる。 昨シーズン1976年)は1シーズンメカニックなどが8人も変わったので、片山は昨シーズン終了後日本帰ってからメカニック探し始める。目星付けていた人物今シーズン以降片山敬済のチーフメカニックとしてWGP転戦することになる杉原真一である。当時杉原片山義美マツダ ロータリーエンジンチューニング担当するチーフメカニックであったが、片山敬済何度も頼み込みWGP一緒に来てもらえることになったその後、ヤマハモーターNV契約した片山は、新開発3気筒エンジン従来2気筒エンジン2種類のTZ350をサーキットによって使い分け日本人初となるWGP350ccクラスチャンピオンとなる。ただし片山韓国籍なので、正確に日本フェデレーション所属する選手として初の世界チャンピオンもしくは東洋人初の世界チャンピオン表現すべきだろう片山ユーゴスラビアGP前にベルギー行われたインターナショナルレースで転倒して鎖骨骨折してしまった。ユーゴスラビアGP予選の日まで一週間もなかったが片山手術を受け、スチールプレートとボルト骨折した鎖骨固定してユーゴスラビアGP臨み、350ccで優勝しただけでなく、250ccでも2位になり、人々驚かせた。7月29日30日イマトラフィンランドGP)で行われた決勝レースでは3気筒TZ350走らせて優勝し最終戦待たずに350ccクラスチャンピオン確定し月刊誌『モト・ライダー』(1977年10月号)の表紙飾った。このレースでは、3気筒エンジンの状態は悪くチェッカーフラグ振られる時点では2気筒しか動いていなかった。 3気筒TZ350実質片山スペシャルで、その後まともに乗りこなせたレーサー存在しないチャンピオン獲得後のコメントでも「チャンピオン取れると思っていた。自分ほどチャンピオン取るために準備努力をしている人間はいないし、取れなければおかしいとさえ思っていた」と語る(一部Number』誌より抜粋)。 Rd. グランプリサーキット350ccクラス結果備考1 ベネズエラ サン・カルロス 出場せず 2 オーストリア ザルツブルクリンク 事故中止 3 西ドイツ ホッケンハイム 優勝3気筒) 4 イタリア イモラ 3位3気筒) 5 スペイン ハラマ 3位2気筒ヘアピンが多いコース 6 フランス ポール・リカール 優勝3気筒) 新フレーム使用 7 ユーゴスラビア オパティヤ 優勝2気筒1週間前に鎖骨複雑骨折 8 ダッチTT アッセン リタイア2気筒) チェンジペダル折損 9 ベルギー スパ — 350ccクラスレース無し 10 スウェーデン アンダーストープ 優勝2気筒デッドヒート 11 フィンランド イマトラ 優勝3気筒3気筒のうち1気筒燃焼せず。世界チャンピオン確定12 チェコスロバキア ブルノ リタイア ニコ・バッカーフレーム使用セッティング出ず13 イギリス シルバーストン リタイア 250ccクラスではランキング4位となる。 Rd. グランプリサーキット250ccクラス結果備考1 ベネズエラ サン・カルロス 出場せず 2 オーストリア ザルツブルクリンク 事故中止 3 西ドイツ ホッケンハイム リタイア エンジン焼き付き 4 イタリア イモラ 8位 5 スペイン ハラマ 優勝 途中から独走 6 フランス ポール・リカール 8位 一時先頭を走るが、キャブレター取り付け不備により、片手キャブレター押さえながらの走行となる。 7 ユーゴスラビア オパティヤ 2位 1週間前に鎖骨複雑骨折 8 ダッチTT アッセン 6位 9 ベルギー スパ 2位 ニコ・バッカーフレーム使用 10 スウェーデン アンダーストープ 4位 11 フィンランド イマトラ リタイア 12 チェコスロバキア ブルノ リタイア 13 イギリス シルバーストン リタイア 1970年代初頭ヤマハのワークスライダーであった本橋明泰次のように語っている。 「片山立派だ世界チャンピオン獲るには、ただレース速いだけでは駄目で、生活全般にわたって欧米人ライダー戦えなければならないそういう意味でも、彼はよくやったと思う」(本橋明泰) しかし、片山世界チャンピオンシップ獲得日本ではほとんど知られておらず、1977年シーズンのモータースポーツ記者クラブ年間クラブ賞では、片山世界チャンピオンになったにもかかわらず選考から外れそうになった。しかし数人記者片山のことを知っていたので、そのような事態避けられた。当時バイク雑誌でさえ片山表紙にしたのは月刊誌『モト・ライダー』(1977年10月号)ぐらいであった当時WGPを全戦を取材している日本人フォトグラファーの木引繁雄しかおらず、木引も多額自己負担しながら取材をしている状態であった日本ではライダージャーナリストWGP関連だけの収入では食べていけない状況であったそれだけ日本ではWGP認知度低かったのである泉優二片山のために記者会見計画したが、マスコミ関係者集めることに奔走した記者会見会場コーヒー代などは泉が負担しなけらばならない状況であった。泉は通信社知人頼み片山世界チャンピオン獲得配信してもらった。泉は1978年に、ヨーロッパのF2に参戦していた星野一義から「片山さんは、どうやってヨーロッパで戦っているんですか?」と尋ねられことがある星野ヨーロッパドライバーたち強引な走り方に戸惑っていたようである。片山1974年WGP初参戦時に、コーナー進入時にヨーロッパライダー強引にイン側に入られヨーロッパレース洗礼受けた。しかし片山はそれに怯むことなく次の周では同じことをそのヨーロッパライダーやり返した。

※この「1977年シーズン」の解説は、「片山敬済」の解説の一部です。
「1977年シーズン」を含む「片山敬済」の記事については、「片山敬済」の概要を参照ください。


1977年シーズン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/10 04:56 UTC 版)

ヘスケス・308E」の記事における「1977年シーズン」の解説

開幕4戦を欠場して第5戦スペイングランプリからの参戦となり、ドライバールパート・キーガンハラルド・アートル第9戦まで)、ヘクトール・レバーク(第11-13戦)、イアン・アシュレー(第14以降)が参戦したが、シーズン全体で計10回も予選落ち喫し最高位キーガン第12戦オーストリアグランプリでの7位に終わった

※この「1977年シーズン」の解説は、「ヘスケス・308E」の解説の一部です。
「1977年シーズン」を含む「ヘスケス・308E」の記事については、「ヘスケス・308E」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「1977年シーズン」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「1977年シーズン」の関連用語

1977年シーズンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



1977年シーズンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの片山敬済 (改訂履歴)、ヘスケス・308E (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS