1977年以前
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「キリスト教民主アピール」の記事における「1977年以前」の解説
1880年以降、規模の大きなカトリック系およびプロテスタント系諸政党が宗教学校への公的支出問題について共闘関係にあったことから、1888年に反革命党(プロテスタント系)のマッカイ男爵を首班とする初のキリスト教民主主義政権が誕生する。 だがこの政権は大規模であったが故に内紛が絶えず、教皇庁やオランダ領東インドの処遇を巡り1894年に保守系の反カトリック派が反革命党を離れキリスト教歴史同盟を結党。1918年以降はオランダ議会の両院に3党(カトリック人民党、反革命党、キリスト教歴史同盟)が鼎立し、うち少なくとも2党は政権与党であった。こうした状況は1967年まで続いた。 1960年代はオランダ社会において世俗化が進み、支持基盤がキリスト教民主主義政党から離れていった時代でもある。1963年の総選挙において3党で総得票数のうち半数以上を占めたものの、1972年の選挙では32%にまで低下した。この凋落により3党は再び接近を図り、1967年に将来の合併を企図すべく6名の国会議員がシンクタンクを設立。翌1968年、3党の党首が今後も共闘を続ける旨の声明を出す。 この声明は3党内(とくにカトリック人民党や反革命党)の進歩派に政治的連携への後悔の念を抱かせる結果に終わり、1968年には進歩派が社会民主主義を掲げる労働党(PvdA)との協力を模索する左派政党の急進党を結成。しかしながら3党は地方において依然として協力関係にあり、キリスト教民主主義政権を共に支えたり統一候補のリスト作成を提案したほか、1971年には共通のマニフェストを発表した。 1972年の選挙後、共闘関係は新たな局面を迎える。1973年に第二院議員のピエト・スティーンキャンプ(英語版)(カトリック人民党所属)が3党合併協議会の会長に選出されると、新党結成の機運が一気に高まることとなる。
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