本橋明泰とは? わかりやすく解説

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本橋明泰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/24 16:14 UTC 版)

本橋 明泰(もとはし あきやす、1939年10月30日 - )は、日本の元レーシングライダー、元レーシングドライバー

東京都出身[1]

経歴

ヤマハから世界GP

大学在学中にアマチュアでオートバイレースに参戦を開始。ヤマハ発動機のライダー養成テストを受け、1962年にヤマハと契約、オープンしたばかりの鈴鹿サーキットで行われた第1回全日本ロードレース選手権のノービス250ccクラスに参戦し、予選でポールポジションを獲得。決勝レースはリタイアとなったが速さを見せる。

1964年の鈴鹿で開催された日本グランプリにて世界グランプリ初参戦、125ccクラスで6位入賞。翌1966年はヨーロッパに遠征しオランダGPに参戦、日本グランプリでは250ccクラスで3位表彰台、1967年のマン島TTでは125ccクラス3位表彰台、日本GP250ccクラス2位表彰台と好成績を連発。全日本ロードレース選手権でもランキング上位を長く保持し続けた[1]

日産からレーシングドライバーとして

1969年に日産自動車ワークスドライバーのオーディションに合格、大森ワークス所属でレーシングドライバーとして活動を開始。全日本ドライバー選手権や富士1000km等の耐久レースに日産・スカイライン2000GT-R日産・ブルーバードSSSを駆り参戦。その一方でFL500等の軽フォーミュラにも参戦し、優勝する等活躍した。

ヤマハに復帰

車体開発を手掛けたヤマハ・YZR500

ヤマハがワークス活動再開に伴い復帰。ロードレース世界選手権で世界タイトルを幾度も獲得することになる名機、YZRの開発が立ち上げられると、本橋を開発の中心としたプロジェクト・チームが編成された[2]。最初に作られたのは元々あった350ccエンジンを倍にした700cc仕様のマシンで、この仕様の時点で完成度が高かったことから、これをベースに1972年当時アメリカで盛んになっていたフォーミュラ750英語版規定のマシンと、欧州でのグランプリに向けて500cc仕様のマシンを両方開発していくことになった。本橋はマシンテストで基本的な方向性を設定し、のちにジャコモ・アゴスチーニ1974年,1975年)、ケニー・ロバーツ1978年,1979年,1980年)が世界チャンピオンを獲得する礎を築いた[3]

ヤマハでは数多くのレーシングマシンの開発や、ヤマハロードレーシングスクールでの講師として毛利良一鈴木修平忠彦など後進育成にも貢献。1976年12月21日、銀座東急ホテルで行われた「'77ヤマハレース活動発表記者会見」にて現役引退を発表。その席で「ロードレースは生きる喜びを最大限に与えれくれるもので、集中力と決断力をもってあらゆることに耐え抜き、耐え抜くために何かを探し求めて生きてきました。現在も体力的には十分自信があるが、精神面の問題ですね。無心で走ることができなくなってきたので、潮時と考えました。今後はこれまでの経験を活かし、ライダーの指導・育成にあたりモータースポーツのより一層の普及に尽力したい。」と語った[4]

経営者としては、東京都吉祥寺南町でオートバイショップ「本橋ヤマハ」の代表、全日本ロードレース選手権に参戦するワールドワイドMCの代表者を務めた[5]

戦績

2輪

全日本ロードレース選手権

チーム マシン 区分 クラス 1 2 3 4 5 6 順位 ポイント
1971年 スポーツライダース ヤマハ・RX350 セニア 251cc以上 SUZ TSU SUZ
1
SUZ TSU SUZ 7 15
1974年 ワールドワイドMC ヤマハ・YZR500 750cc SUZ SUZ TSU SUZ TSU SUZ
1
- -
  • ポイント対象外のフォーミュラ・リブレ。

ロードレース世界選手権

クラス 車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 順位 ポイント
1964年 125cc ヤマハ USA SPA FRA IOM NED GER DDR ULS FIN ITA JPN
6
24位 1
1966年 250cc ヤマハ SPA GER FRA NED BEL DDR TCH FIN ULS IOM ITA JPN
3
14位 4
125cc ヤマハ SPA GER NED
5
DDR TCH FIN ULS IOM ITA JPN
4
8位 5
1967年 250cc ヤマハ SPA GER FRA IOM NED BEL DDR TCH FIN ULS ITA CAN JPN
2
9位 6
125cc ヤマハ SPA GER FRA IOM
3
NED DDR TCH FIN ULS ITA CAN JPN 12位 6

4輪

鈴鹿1000km

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1970年 SCCN 星野一義 日産・ブルーバードSSS T-Ⅱ 136 13位 6位

富士1000km

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1970年 SCCN 田村三夫 日産・ブルーバードSSS T-Ⅱ 217 6位 1位
1971年 柳田春人 日産・フェアレディ240Z 12 R-Ⅲ DNF DNF

その他4輪の戦績

レース チーム 使用車両 クラス 結果
1969年 富士スピードフェスティバル富士300kmゴールデンシリーズⅣ SCCN 日産・スカイライン2000GT-R セダンⅢ 5位
1970年 全日本鈴鹿自動車500kmレース 日産・スカイライン2000GT-R T-Ⅱ 3位
第12回全日本クラブマン 日産・スカイライン2000GT-R TS-Ⅳ 8位
北海道スピードウェイ・オープニング・レース大会 日産・ブルーバードSSS T-Ⅱ 3位

人物

  • 金谷秀夫河崎裕之浅見貞男平忠彦等のワークスライダーを育成する等、ライダーやドライバーの能力や素質を見抜くのに長けている。
  • 同じレースで競る機会も多かった金谷秀夫は本橋のライディング技術を、「本橋サンは自分の走り方について理論を完全に持っている。あのコーナーはこう、という理論づけが確立されていて、経験値の高さを感じます。」「僕と本橋サンだとだいぶ走り方が違います。本橋さんはどっちかというとコーナー出口で速さを稼ぐという方法ですね。僕は入口で稼いで出口でのスピードをロスしてしまう感じですけど、本橋サンは逆にクリッピング・ポイントですでにアクセル開けてます。立ち上がり重視ですね。」と述べている[6]
  • 大森ワークスで同期だった星野一義は本橋が日産ワークス活動休止とヤマハワークス活動再開でヤマハに戻る事になった際、星野も日産を離脱を考えていたが、「お前は残れ。日産で大きくなれ」と言われて残った。その後、星野は「日本一速い男」として国内4輪レースで君臨する事になる。
  • ヤマハのワークスライダーとして1977年のロードレース世界選手権の350ccでチャンピオンを獲った片山敬済を「世界チャンピオンを獲るには、ただレースに速いだけでは駄目で、ヨーロッパでの生活全般にわたって欧米人ライダーと戦えなければならない。そういう意味でも、彼はよくやったと思う」と高く評価した[7]

脚注

出典

  1. ^ a b 「Rider Album 本橋明泰 日本のレーシングモーターサイクル栄光の歩み」『モーターサイクリスト』12月号増刊、八重洲出版、1988年12月15日、270頁。
  2. ^ 「GREAT RIDER WITH YAMAHA 多くの伝説を残したヤマハOWとそれを駆ったライダーたち」『グランプリ・イラストレイテッド No.17』Vega International、1987年2月1日、76-77頁。
  3. ^ 「GPを見つめて 第7回 ヤマハ契約ライダー・河崎裕之」『グランプリ・イラストレイテッド No.19』Vega International、1987年4月1日、90-95頁。
  4. ^ 「現役引退 本橋明泰選手・ヤマハのレース活動とともに栄光の15年」『ヤマハニュース No.164』ヤマハ発動機 1977年2月1日、22-24頁。
  5. ^ マスターライダース2015 二輪文化を伝える会 (2015年12月21日)
  6. ^ 「最優秀選手・金谷秀夫が語るロードレース」『ライディング No.54』日本モーターサイクルスポーツ協会、1972年1月1日、13頁。
  7. ^ グランプリ・ライダー』(p222, p223)より。

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