本橋精一とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 本橋精一の意味・解説 

本橋精一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/16 00:27 UTC 版)

本橋 精一(もとはし せいいち 1915年 - 1946年1月31日[1])は、日本の元アマチュア野球選手。東京都出身。

来歴・人物

早稲田実業在学中は、甲子園に6回出場[2]。春2回(1932年1933年)、夏4回(1931年1932年1934年1935年)出場。1931年~1932年春は二塁手[3][4]、1932年夏は三塁手[4]、1933年は遊撃手で出場し[5]ユーティリティープレイヤーぶりを発揮。翌1934年から投手で出場した[6][7]。1935年夏は準決勝まで進出し、育英商(現・育英高等学校)の佐藤平七(後に毎日阪急でプレー)と投げ合ったが、延長10回サヨナラ負けを喫した(スコアは3-4x)。中学時代のチームメイトに星野正男(後に金鯱)、南方義一(後に名古屋)、望月潤一(後にイーグルス)、太田健一[8](後にイーグルス、黒鷲)、安永正四郎(後に金鯱)等、後にプロ野球でプレーした選手が何人もいた[9]

1936年に早大に入学、大学野球でも二塁手として出場した。しかし早大卒業後応召され、戦地の中国で病を得て終戦1946年1月31日に日本に帰還することが適わないまま、満州陸軍病院戦病死した。享年30。

東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、彼の名が刻まれている[10]

脚注




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「本橋精一」の関連用語

本橋精一のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



本橋精一のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの本橋精一 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS