ダム1号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 04:51 UTC 版)
「ヨークタウンの包囲戦 (南北戦争)」の記事における「ダム1号」の解説
4月16日、北軍はハンコックが4月6日に弱点の可能性があると報告したウォーウィック川のリーズミルに近いダム1号地点で防御線に探りを入れた。マグルーダーはハンコックの部隊と軽い小戦闘を交わした後に、その配置の弱点を認識して強化を命じた。ハウエル・コブ准将の3個連隊と近くにいた他の6個連隊で、ダムを見下ろす川の西岸にある陣地を固めた。マクレランはこの敵陣の強化で攻城砲台の設置を邪魔されることを恐れるようになった。マクレランから第4軍団の師団長ウィリアム・F・"ボールディ"・スミス准将に出された命令は、会戦を避けることだったが、その防御工作物を完成させるときに「敵の邪魔をする」ことだった。 午前8時の砲撃に続いて、ウィリアム・T・H・ブルックス准将とそのバーモント旅団が散兵を前進させ南軍に発砲した。マクレランは前線を訪れて、スミスに、南軍が撤退しているようであれば川を渉るように告げた。しかしそれはその日の午後早くに始まっていた。午後3時、第3バーモント歩兵連隊の4個中隊がダムを渡り、残っていた防衛軍を壊走させた。前線の背後ではコブがその弟のトマス・コブ大佐のジョージア・リージョンと共に防御軍を編成し、南軍の射撃壕を占領していたバーモント兵を攻撃した。戦闘中に鼓手のジュリアン・スコットは負傷兵を連れ帰るのを助けるために銃火に曝されたクリークを何度か往復した。後にスコットはエドワード・ホルトン曹長やサミュエル・E・ピングリー大尉と共に名誉勲章を受章した。 バーモントの中隊は援軍が得られぬままにダムを渡って撤退し、後退時に損失を出した。午後5時頃、ボールディ・スミスは第6バーモント連隊にダムから下流の南軍陣地への攻撃を命じ、一方第4バーモント連隊にはダムの上で陽動行動を採らせた。この操軍は第6バーモント連隊が南軍からの激しい銃火に遭って撤退を強いられた時に失敗した。負傷兵の中には撤退時にダム背後にある浅い池に落ちて溺れた者もいた。
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