南軍の反応
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「アポマトックス駅の戦い」の記事における「南軍の反応」の解説
リーとその主要な部下達は、4月8日にアポマトックス駅の方向から聞こえてくる砲声が、北軍騎兵隊が自隊の前に出ていることを意味していると理解した。リー将軍はロングストリート中将、ゴードン少将、フィッツヒュー・リー少将と状況を検討し、また自隊が降伏した場合にグラントが提案している寛大な条件に言及した後、自軍が4月9日朝に北軍の騎兵隊とのみ対峙している場合は、リンチバーグに向けて突破を図ることにした。北軍の歩兵部隊も前面にいる場合は、その取るべき行動を再考することにした。ゴードンとフィッツヒュー・リーは、リンチバーグに至る道路から北軍兵を追い払う任務を与えられた。リーは、キャンベル・コートハウスを通って回り道をして行くことで、ダンビルに向けて進むことを望んだ。その作戦は、南軍兵は限られた物資のみで北軍騎兵隊の封鎖を押し通していくということだった。輜重隊は護衛も無しに遠回りをしてリンチバーグに向かうということだった。余剰な荷車と物資は再度燃やされた。もし北軍歩兵部隊も行く手を遮るならば、リーは部下達にそれを教えてくれるよう求め、休戦の旗をグラントのもとに送り、「我が軍に残された唯一の代替案に応じる」ということだった。
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南軍の反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/18 16:03 UTC 版)
北軍気球司令部が有効だったので、南軍も同じように気球を取り入れる必要があると感じた。リッチモンドでは石炭ガスが直ぐに手に入れられなかったので、最初の気球はモンゴルフィエ兄弟式の剛体様式で造られた。綿布が木枠の上に拡げられ、油を浸漬させた松かさを燃やしてできる煙で充填させた。これらはヨークタウンで使うためにジョン・R・ブライアン大尉が操縦した。ブライアンの操作者は経験が足りず、その気球は上空で回転を始めた。別の時には、操作者の1人が登って行く索に絡まり切り落とす必要があったために、ブライアンは自軍陣地上に自由飛行することになり、味方の兵士から撃ち落されそうになった。 ガス充填式絹製気球を製作する試みは、南部が全く輸入品を得ることができなかったために挫折した。南軍は衣服用の絹で気球を作り上げた。歴史家のエバンスは、南軍の気球が衣服を作るための絹で作られ、衣服そのものではなかったと述べている文書を引用した。それは次のようだった。「...南部のために日曜日の晴れ着を諦めるよう求められた南部婦人は一人ではなかった。」歴史家ユージン・ブロックはローが南軍のジェイムズ・ロングストリート少将から受け取った手紙で、気球を作るために見つけられる絹の衣服を集めるよう派遣されたと主張する次の文を引用している。 我々は貧乏が否定した気球を待ち望んでいるときに、ある天才が立ち上がって我々は気球を造るために南部にある絹の衣服を全て得るために派遣されるべきと提案した。それが実行され、間もなく大きな継ぎはぎの船ができた...七日間の戦いのために。ある日、それはジェームズ川を降る蒸気船の上にあり、潮が引いた時に砂洲の上に高く乾燥しておかれた。北軍兵がそれを集め、それと共に南部で最後の絹の衣服も集めた。これはこの戦争の最もつましい悪戯だった。 継ぎはき絹はローに渡され、ローは使いようが無かったが、切断してアメリカ合衆国議会でお土産として配った。ガス充填された球体がリッチモンドの上に多色の物体として現れ、ランドン・チーブス大尉が操縦した。最初の気球が使われる前に、ジェームズ川を輸送中、北軍海軍のUSSモニターの乗組員に捕獲された。2つ目の気球は1863年夏に利用され、係留所から切れて吹き流され北軍の手に落ちて、やはりアメリカ合衆国議会議員へのお土産に分割された。北軍が気球を利用することが減ったので、南軍もこれに倣った。
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