南軍の建て直し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/23 16:25 UTC 版)
「第一次ブルランの戦い」の記事における「南軍の建て直し」の解説
エバンス、ビーおよびバートウの残り部隊がマシューズヒルの陣地から撤退するときに、ジョン・インボーデン大尉砲兵隊の4門の6ポンド砲が支援し、南軍がヘンリーハウスヒルで再結集する間、北軍の前進を止めた。これらの部隊はM・ルイスの「ポーティシ」農園にあったジョンストン本部から到着したばかりのジョンストンとボーリガード両将軍と遭った。南軍にとって幸運だったのは、マクドウェルがこの攻勢をさらに進めて戦略的に重要な陣地を即座に取ろうとしなかったことであり、その代わりにドーガンズリッジからジェイムズ・リケッツ大尉の砲兵中隊とチャールズ・グリフィン大尉の砲兵中隊の大砲で丘に向かって砲撃を開始した。 正午頃に混乱した南軍を支援するためにストーンウォール・ジャクソンのバージニア旅団が到着し、さらにウェイド・ハンプトン大佐の独立混成部隊とJ・E・B・スチュアートの騎兵隊が到着した。ジャクソンはその5個連隊を丘の反対側斜面に置いて直接砲火を浴びないようにし、防衛のために丘の頂上には13門の大砲を集めることができた。大砲を放った後はその反動で丘の反対斜面に下がり、次の弾充填を安全のうちに行うことができた。一方、マクドウェルはリケッツとグリフィンの砲兵中隊にドーガンズリッジから歩兵を支援できる丘に移動するよう命じた。その11門の大砲はジャクソンの13門と300ヤード (270 m)の距離を置いて激しく撃ち合った。南北戦争の他の多くの戦闘の場合とは異なり、この時の南軍砲兵隊には利点があった。北軍の大砲は南軍の滑腔砲の射程内にあり、北軍に多いライフル砲はそのような至近距離では効果が薄く、多くの砲弾が敵の頭上を飛びすぎた。 砲火の犠牲者の一人は85歳の寡婦で病身のジュディス・カーター・ヘンリーで、ヘンリーハウスの寝室から動けなかった。リケッツは砲弾を受け始めたときにヘンリーハウスから飛んでくるものと判断し、大砲をその建物に向けた。一発の砲弾が寝室の壁を突き破り、寡婦の足をもぎ取り、他にも多くの傷を与えた。彼女はその日遅くに死んだ。 ビーはジャクソンに向かって「敵は我々を追い払おうとしている」と叫んだ。ジャクソンは元アメリカ陸軍士官でバージニア州立軍人養成大学の元教授であったが、「諸君、彼らに銃剣をくれてやろう」と答えたと言われている。ビーは「そこにジャクソンが石の壁のように立っている。ここで死ぬことに決めよう。そして勝つんだ。俺に続け」と言って自部隊を鼓舞して再結集させた。ビーの発言と意図については戦後も議論があり、ビーがその後の戦いで瀕死の重傷を負い、部下の士官達も記録を残さなかったので、正確なところは分かっていない。ジョンストン将軍の参謀長バーネット・レット少佐の報告では、ビーとバートウの旅団が厳しい圧力を受けているときにジャクソンが即座に助けに来なかったのでビーは怒っていたと主張した。この意見を支持する人々は、ビーの発言が軽蔑的な意味合いで「あそこに石壁のように立っているジャクソンを見よ」ということだったと信じている。
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