南軍の信号司令部
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「南北戦争の信号司令部」の記事における「南軍の信号司令部」の解説
マイアーがウィグワグ装置を実験するときに助手を務めたエドワード・ポーター・アレクサンダーは1861年5月1日にアメリカ軍から除隊し、工兵大尉として南軍に入隊した。アレクサンダーは南軍信号司令部を結成へ向けて新兵の編成と訓練を行っている時、バージニア州マナサスのP・G・T・ボーリガード准将への出頭命令を受けた。アレクサンダーは6月3日に南軍ポトマック軍の技師長と信号士官となった。北バージニア軍の兵器士官長となった後でも信号士官の地位は維持したが、他の任務が優先された。 南軍の信号司令部は北軍のものに匹敵するような明確な部局になることは無かったが、アメリカ連合国議会は1862年4月19日に総務局長と監察官の部局に付設する別組織として設立することを承認した。この日付は北軍のそれより1年も前のことである。初代信号士官長はメリーランド州の弁護士で、当時ジョン・マグルーダー少将の参謀だったウィリアム・ノリス大尉が務めた。 ノリスの司令部は、少佐1名、大尉10名、少中尉20名、軍曹20名および各種部局から選抜された1,500人の兵士が構成し、信号士官1名が各軍団と師団の参謀として承認された。南軍信号司令部の任務と機材は北部と、若干の例外を除いて似ていたが、電信線と訓練された電信員が不足していたために、野戦通信に電信が使われる事は無かった。視覚通信は類似した旗を用いて行われたが、符号と手旗の操作はマイアーの方法から若干修正された。北軍の信号司令部と異なったのは、南軍信号司令部は南部のために諜報活動を行うことも公認されていた為(両軍とも戦場の情報収集や時には高所の観察地点から砲兵隊に砲撃方向を教えることなど貴重な任務を担ったが、南軍の司令部員は敵の全線背後での隠密任務も負った)、南軍の諜報部隊として実際に機能し、リッチモンドから北部やカナダまでも延びる機密の通信線と情報網を管理運用した。しかし、それらは隠密に行われた為、成果の大半が歴史に埋もれてしまった。その記録の多くはリッチモンド陥落とそれに続くノリスの家の火事の時に灰になったが、ノリスはそれらを個人文書だと主張している。
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