南足立郡成立まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/27 12:47 UTC 版)
現在の足立区の区域は、かつては武蔵国足立郡のうちであった。足立郡の名は、古くは『続日本紀』にみえ、武蔵国東部の広範な地域を占めていた。かつての足立郡は大部分が現在の埼玉県に属し、南端の一部が現在の東京都足立区となっている。 現行の足立区にあたる地域は、近世には幕府領で、大部分が淵江領、一部が舎人領に属した。近世末には奥州街道の宿場であった千住宿のほか、以下の41村が存在した。 本木村、興野村(おきのむら)、西新井村、梅田村、島根村、栗原村、小右衛門新田、沼田村、鹿浜村、鹿浜新田、加々皿沼村、高野村(こうやむら)、谷在家村(やざいけむら)、宮城村、小台村(おだいむら)、堀之内村、次郎左衛門新田、弥五郎新田、五兵衛新田、伊藤谷村、佐野新田、北三谷村(きたさんやむら)、蒲原村(かばはらむら・かばらむら)、大谷田村、普賢寺村、長右衛門新田、花又村、内匠新田(たくみしんでん)、六ツ木村、久左衛門新田、長左衛門新田、久右衛門新田、嘉兵衛新田、辰沼新田、保木間村、六月村(ろくがつむら)、竹塚村(たけのづかむら)、伊興村、舎人村(とねりむら)、入谷村、古千谷村 明治維新以降、千住宿と足立郡南部の村々は武蔵知県事の支配を経て、明治2年1月(1869年2月)には小菅県に属した。明治4年7月(1871年8月)、廃藩置県が実施された。同年11月(1872年1月)、従来の東京府、品川県、小菅県が廃止されて、新しい東京府が設置され、足立郡のうち小菅県管轄だった部分も東京府に編入されることとなった。同じ時期に府内は6大区・97小区に分けられた(いわゆる大区小区制)。明治7年(1874年)3月、区割りが見直され、あらためて11大区・103小区が設置された。後に足立区となる区域は、このうちの第10大区第4〜6小区に属していた。なお、上に列挙した村のうち、舎人村は廃藩置県後は埼玉県に属し、明治8年(1875年)に東京府に編入されている。 千住宿は、近世には千住一〜五丁目、掃部宿(かもんじゅく)、河原町、橋戸町、小塚原町、中村町の10町に分かれていた。千住一〜五丁目は本宿とも呼ばれ、近世初頭に整備された千住宿の区域で、現行の千住一〜五丁目にあたる。掃部宿、河原町、橋戸町は現行の千住仲町、千住河原町、千住橋戸町に相当。隅田川の対岸(南)に位置する小塚原町と中村町は足立郡でなく豊島郡に属し、現行の荒川区南千住のうちである。これら10町は明治2年、千住一〜五丁目が千住宿北組、掃部宿、河原町、橋戸町が千住宿中組、小塚原町と中村町が千住宿南組と改められた(明治11年、千住北組・千住中組・千住南組に再改称)。 その後、郡区町村編制法の施行に伴い、大区小区制は廃止され、明治11年(1878年)11月2日、東京府下に15区6郡(荏原、南豊島、北豊島、東多摩、南足立、南葛飾)が置かれた。後に足立区となる区域は、このうちの南足立郡にあたる。その後、葛飾区との区境変更等があったものの、東京府南足立郡の範囲が現行の東京都足立区に相当するとみて大過ない。
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