編成と訓練
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「第17SS装甲擲弾兵師団」の記事における「編成と訓練」の解説
第17SS装甲擲弾兵師団は1943年10月フランスのポワチエで編成された。部隊は、訓練部隊や補充部隊、バルカン半島やルーマニアに住むドイツ系住民などの徴兵より基幹部隊が作られ編成された。11月に場所をトゥアールに移し、SS中佐オットー・ビンゲ(英語版)が師団の編成の監督を行い、年内に戦力は4000人程度となった。1944年1月にSS少将ヴェルナー・オステンドルフが指揮官となった。この師団は、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥のD軍集団配下のドイツ第80軍団に配備された。 1944年2月になってもいまだ部隊は車両装備を欠く状態であった。第80軍団の命令で、師団は装備を充当するためにフランスの車両までかき集め始め、3月までにほとんどの戦闘部隊は完全に自動車化された。6月1日、部隊はフランスのトゥアールにおり、兵力としては17000人いたが、戦車を所持しておらず(装甲大隊は突撃砲を装備していた)、訓練期間も22~25週間程度と短く、士官や下士官に欠く状態であった。
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編成と訓練
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最初のチンディット部隊である第77インド歩兵旅団は、1942年の夏にジャーンシ周辺で徐々に編成された。ウィンゲートは雨季に中央インドのジャングルで同部隊の訓練を行った。チンディットの半分は英国人だった。すなわち、キング・リバプール連隊第13大隊(年配の男性が多数含まれている、事実上二線級の大隊)および142ブリティッシュ・コマンドス歩兵中隊(前身はビルマのブッシュ戦スクール)で形成されていた。部隊はその他、第二グルカライフル連隊第三大隊(創設されたばかりであった)、そしてビルマライフル連隊(1942年にビルマからインドへ撤退したいくつかの定員割れ大隊を統合させた部隊)からも成り立っていた。 ウィンゲートは連隊を長距離浸透部隊として訓練し、補給は輸送機からのパラシュート付きまたは無しの物資投下で行い、重砲の代替として近接航空支援を行うものとした。彼らは徒歩でジャングルを踏破し、基本的に機動的な奇襲効果を頼りにし、敵の連絡路を標的とした。これは日本軍が1942年にシンガポールとビルマでイギリス軍に対して大きな効果を発揮していた戦術であった。 通常の旅団や大隊で行われる組織構成は放棄された。チンディットの編制は八個縦隊とされ、それぞれの縦隊が一個ライフル中隊(軽機関銃9、軽迫撃砲3含む)、一個火力支援班(対戦車銃4、重機関銃2、軽対空砲2)、一個偵察小隊(ビルマライフル連隊)、そして一個破壊工作班(142コマンドス)で構成されていた。また各縦隊の本部には、空軍(航空支援の要請を担当)、通信部隊、医療部隊からそれぞれ小分遣隊が配された。重火器・通信機・予備弾薬・食料などの貨物はラバが搬送し、ラバ自身も非常食料としての役割を担っていた。各縦隊の定員は306名(グルカ兵縦隊は369名)とされ、うち57名が荷駄の御者であった。 それぞれの兵士が担送しなければならない装備類の重さは33キログラムを超え、これはラバにとっての負担よりも重いほどであった。兵士は火器・武器・弾薬に加えて、鉈またはククリ・7日分の糧食・携帯天幕・着替えなどを各自で運ばねばならなかった。そのため、金属製の背負子(エベレスト・キャリア)が多用された。 その後、一個縦隊が解体されて他の縦隊を補充するために振り分けられ、初の任務が始まる直前には七個縦隊態勢となっていた。一個縦隊が単独行動する際には旅団から直接指揮を受ける一方、二個以上の縦隊が連携する場合については、その都度個別の作戦指揮所が設けられた。
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