ハリコフの戦い
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ナビゲーションに移動 検索に移動ハリコフの戦い(Battle of Kharkiv)
- ハリコフ作戦 (1919年6月)
- ハリコフ攻防戦(第二次世界大戦・独ソ戦)
- 第一次ハリコフ攻防戦(1941年10月)
- 第二次ハリコフ攻防戦(1942年5月)
- 第三次ハリコフ攻防戦(1943年2月)
- ルミャンツェフ作戦(1943年8月)
- ハリコフの戦い (2022年)
関連項目
- ハリコフ作戦
- ハリコフ占領
- Kharkiv (disambiguation)
- Kharkov (disambiguation)
- ハリコフ攻防戦
ハルキウの戦い
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LSSAHは1942年の残りを装甲擲弾兵師団への再編成と訓練に費やした。1942年2月1日にIV号戦車を装備した3個中戦車中隊で構成された第1SS戦車大隊が編成されていたが、SS装甲軍団司令官パウル・ハウサーSS大将とヒムラーの努力により、大隊でなく戦車連隊を持つ装甲擲弾兵師団として編成された。これはSS装甲擲弾兵師団が、その名称にもかかわらず事実上の装甲師団であることを意味した。同様に、師団は9輌のティーガー戦車を受領し、LSSAH戦車連隊重戦車中隊を構成した。12月末に第9SS装甲師団編制の為、一部のベテラン下士官が異動した。 スターリングラード付近の前線の崩壊と、ドイツ第6軍の包囲は東部戦線全体の崩壊が近いことを意味していた。ドン軍集団司令官エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は、ハリコフ近郊のソ連軍の攻撃を止めるための増援を要請、SS装甲軍団は出動命令を受けた。 1943年1月後半にLSSAHは前線に到着、ハリコフの防衛にハウサーのSS装甲軍団はドネツ川に沿った防御線に投入された。彼らに対したのはソ連第3戦車軍であった。2月10日、LSSAHと第320歩兵師団の間に進入したソ連軍部隊を攻撃する為LSSAHは防御線を後退させ、メレファ近郊に部隊を集結しアングリフスグルッペ(Angriffsgruppe 攻撃群)を編成、激しい戦闘を行った。 ソ連軍に多大な損耗を強い、LSSAHは全ての攻撃を阻止したにもかかわらず、2月14日、ソ連軍はSS軍団とラウス軍団の防御線を突破しハリコフは包囲され、翌15日にハウサーはヒトラーの死守命令を無視しハリコフを放棄した。25日、LSSAHはソ連軍の圧力によりクラスノグラート近くまで後退した。28日にソ連第6軍の撤退を援護するため進出したソ連第3戦車軍をSS装甲軍団は挟撃し包囲、3月5日これを壊滅させた。そして、SS装甲軍団はハリコフへ進撃、10日にLSSAHはデルガチを占領した。 3月11日、ハリコフ攻略を開始した。ヴィットの第1SS擲弾兵連隊は北から、マイヤー戦闘団を指揮下に入れたテオドーア・ヴィッシュの第2SS擲弾兵連隊は西から市街へ突入した。激しい戦闘で一軒ずつソ連兵を掃討し、15日、ハリコフはドイツ軍の手に戻った。LSSAHは引き続きベルゴロドへ突進し、3月18日パイパーは「奇襲によりベルゴロドを占領した」と報告した。その後クルスクを目指すが抵抗が激しくなり、3月26日に全ての作戦行動を終了した。 ヒトラーはディートリッヒの騎士鉄十字章へ剣を与えた。ハリコフ周辺での戦闘においてLSSAHは約4,500名の損耗を被り、その犠牲者の名誉を称えハリコフの「赤の広場」は「ライプシュタンダーテ SS アドルフ・ヒトラーの広場(Platz der Leibstandarte SS Adolf Hitler)」と改称された。師団は休養と再編成のため後方に退いた。
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