2度目のチベット入り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 20:47 UTC 版)
インドに到着した矢島は、インドとシッキムの国境近くの町カリンポンからシッキムを経由してと、前年チベットを出国したルートの逆を行くような形でチベットへ再入国した。なお、この時カリンポンでは、やはりチベット入りを目指していた青木文教と多田等観の二人に偶然出会っている。 7月23日、ラサに着いた矢島は政府高官たちに接触し、日本とチベットの提携を説いたが、当時のチベットは親英路線が強く、これは成果をあまり上げなかった。また、この頃チベットと清はラサで戦闘をしている最中であったが、矢島はこれを直接目撃した唯一の日本人である。 翌1913年(大正2年)の正月には、新年を祝うために日章旗を宿舎の屋根に掲げ、これを役人に咎められるという事件が起きたが、この事件はチベットにも国旗(雪山獅子旗)が制定されるきっかけとなった。この国旗をデザインしたのは矢島とも青木文教ともいわれている。 同年、ラサの地図を制作したことがきっかけでチベット軍の参謀総長と知り合いになり、軍事顧問として迎えられ、兵舎の設計や部隊の教練も依頼された。さらに、矢島の訓練した隊の演習成績が特に良かったことがダライ・ラマの目にとまり、近衛兵の編成と訓練を頼まれるようになる。 矢島は親衛隊長としてダライ・ラマが巡幸を行なうときは常に近衛兵を率いて護衛にあたり、また現地の豪商の一人娘と結婚して子供も産まれた。ダライ・ラマからは絶大な信頼を得ており、その例をあげると、矢島はノルブリンカ離宮内に住居を与えられていたのだが、結婚した際には、離宮は女人禁制の聖域であったにもかかわらず、特別に妻と共に生活することを許されるほどであった。 しかし、その後イギリスのインド政庁がダライ・ラマに矢島の追放を要請。ダライ・ラマは形の上ではこれを拒否したものの、チベットが親英路線にある現状として、これを完全に無視することはできない話であった。矢島としてもその辺りの事情はよく判っており、1918年(大正7年)10月、妻子を連れてラサを発ち、インドを経由して日本へ帰国した。
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