戦闘までの経過
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1973年9月30日、エジプト艦隊の異常な動きを踏まえて、イスラエル海軍の先任情報将校であるラミ・ルンツ大佐は、海軍司令官ベンヤミン・テレム少将に対し、明確な戦争の兆候であると報告した。テレム少将とルンツ大佐は、この情報を参謀本部諜報局長エリ・ゼイラ少将にも通知したものの、ゼイラ少将はこれに同意しなかった。しかし10月1日、エジプト海軍が最高の警戒体制に入ったことが諜知されたこともあり、テレム少将は、開戦が迫っているとの判断を変えなかった。 イスラエル海軍は、10月2日から4日にかけて、ミサイル艇戦隊全力での機動演習を実施していた。これは海軍が整備してきたサールII型・III型・IV型ミサイル艇を中核とする各種武器システムを同時に試験される最初の演習であった。テレム少将は、演習後、6日のヨム・キプル前に帰宅できるよう、4日の午後1時までに乗員たちを上陸させたいと考えていた。しかしルンツ大佐がエジプトの戦争準備の更なる情報を得たことから、4日午前4時、全ての上陸休暇を取り消し、警戒体制に入ることを決心した。 6日午前10時には、シリアが南下する場合の阻止部隊としてサールII型「ミブツァフ」およびサールIV型「レシェフ」の北上が決定され、その後更にサールIII型「ガーシ」「ハニット」が追加された。またミサイル艇戦隊司令バルカイ大佐と幕僚を便乗させて、サールII型「ミツナク」も合流した。一方、エジプトへの備えとして南方任務部隊も組織され、南下した。
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戦闘までの経過
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文禄元年(1592年)5月18日の臨津江の戦いで朝鮮軍が大敗を喫すると平壌城にいた朝鮮王宣祖は平壌から王子を避難させ、敗走してきた金命元・韓応寅・李鎰ら5,6千を収容し、左議政尹斗寿を守城将とし、その配下として都巡察李元翼・平安道巡察使宋慎言・兵使李潤徳らが平壌城の防備を固めた。 6月9日、平壌を目指す小西行長ら一番隊は平壌の大同江対岸まで到着すると、柳川調信・僧景轍玄蘇を使って朝鮮軍に降伏を呼び掛けたが、朝鮮軍はこれを拒否した。11日、宣祖は日本軍の総攻撃が間近になると尹斗寿に平壌城を任せて寧辺に逃亡した。朝鮮軍は日本軍が大同江を渡河する前に川を増水させ、日本軍の渡河を妨害しようと雨乞いを催したが効果はなかった。そこで14日、金命元は城から日本軍の様子を見て大同江を渡ることができず油断していると判断すると、夜襲を行って日本軍の機先を制しようと計画し、精兵を寧遠郡守高彦伯と碧団僉使柳璟令に与え実行させた。
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