南氏とは? わかりやすく解説

南氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/19 08:24 UTC 版)

南氏(みなみし)

南氏 (南部氏)

南氏(みなみし)は、南部氏庶家にして家臣。本姓源氏家系は清和源氏の一流 河内源氏の傍系 甲斐源氏の流れで、南部氏の一門である三戸南部氏の庶族にあたる。北氏東氏と並ぶ一族の重鎮。

南遠江守長義(又は信義)を祖とする。『参考諸家系図』によると、長義は三戸南部氏22代惣領南部政康の三男といい、『寛政重修諸家譜』では22代惣領南部安信の三男という。 長義は浅水城主となったが、屋敷が三戸城の南にあったため、南氏と称されるようになった。

屋裏の変では、信義は南部信直を支持し北信愛と共に南部晴政と戦い、南部信直の26代継承に貢献している。 九戸政実の乱では南盛義が戦死した。この盛義に関して『岩手県史』は、盛義室が南部晴政の娘であり、系譜には盛義戦死のみで彼の事績が無く、一方で系図に南部家文書中に活躍が見える南「慶儀」がいないことから、慶義と慶儀は同一人物で、九戸合戦にて南部家側だった南一族に対し、慶義は九戸氏側に属して戦死した可能性を指摘している。

また、長義の次男・南直勝は、九戸氏側に付いて滅亡した七戸家国の居城・七戸城を主命により領して七戸氏を称し、三男・直政は下田(現:青森県おいらせ町)を領して下田氏を称した。

盛義の跡は弟・南直義が継ぎ3000石を知行したが、長男・南晴政は直義死去時に幼少だったため藩主南部利直の子・利康が養子に入った。利康は加増され5000石となったが、寛永8年(1631年)嗣子なく死去して南氏は一旦断絶した。

寛永10年(1633年)、直義の実子・晴政が300石で取り立てられ、南氏は再興された。文政元年(1818年)、南晴陽は八戸氏東氏北氏中野氏とともに主命によって南部姓に復姓している。

系譜

    南長義1
    (信義)
     ┣━━━━━━┳━━━━┳━━━━┓
    南康義2    直勝   直政   長勝
     ┃      ┃    ┃    ┃
     ┃     七戸直時 下田直勝 下田直義
     ┣━━━┓
    盛義3  直義4 
         ┣━━┳━━┓ 
         利康5 晴政6 直慶7 
               ┃
               政武8 
               ┃
               政勝9 
               ┃
      (六戸政辰の子) 晴武10 
               ┣━━━┳━━━┓
      (下田政寛の子) 晴昌11 晴屋12  政誠
                   ┃ (野沢家養子)
                  晴豊13
                   ┃
                  政誠14(野沢氏を出て実家を継ぐ)
                   ┃
                  多門15
                   ┣━━━┓
     (中屋敷三戸氏初代   南部晴陽16 与惣太17
       ・南部信周の子)        ┃
                       晴旭18
                       ┃
                       晴景19

南氏 (高氏)

南氏は、高氏の庶家の一つ。本姓は高階氏

鎌倉時代高重氏の子が分家して派生した一族の一つ。南北朝時代に活躍した南重長、南宗継などが知られる。

参考文献


南氏 (南部氏)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/01 00:00 UTC 版)

「南氏」の記事における「南氏 (南部氏)」の解説

南氏(みなみし)は、南部氏庶家にして家臣本姓源氏家系清和源氏一流 河内源氏傍系 甲斐源氏流れで、南部氏一門である三戸南部氏庶族にあたる。北氏東氏と並ぶ一族重鎮南遠守長義(又は信義)を祖とする。『参考諸家系図』によると、長義三戸南部氏22惣領南部政康三男といい、『寛政重修諸家譜』では22惣領南部安信三男という。長義浅水城となったが、屋敷三戸城の南にあったため、南氏と称されるようになった。 屋裏の変では、信義南部信直支持し北信愛と共に南部晴政戦い南部信直26継承貢献している。九戸政実の乱では南盛義戦死した。この盛義に関して岩手県史』は、盛義室が南部晴政の娘であり、系譜には盛義戦死のみで彼の事績無く一方で系図南部家文書中に活躍見える南「慶儀」がいないことから、慶義と慶儀は同一人物で、九戸合戦にて南部家側だった南一族に対し、慶義は九戸氏側に属して戦死した可能性指摘している。 また、長義次男・南直勝は、九戸氏側に付いて滅亡した七戸家国居城七戸城主命により領して七戸氏称し三男直政下田(現:青森県おいらせ町)を領して下田氏称した。 盛義の跡は弟・南直義継ぎ3000石を知行したが、長男・南晴政は直義死去時に幼少だったため藩主南部利直の子・利康が養子入った。利康は加増され5000となったが、寛永8年1631年嗣子なく死去して南氏は一旦断絶した寛永10年1633年)、直義実子・晴政が300石で取り立てられ、南氏は再興された。文政元年1818年)、南晴陽は八戸氏東氏北氏中野氏とともに主命によって南部姓に復姓している。

※この「南氏 (南部氏)」の解説は、「南氏」の解説の一部です。
「南氏 (南部氏)」を含む「南氏」の記事については、「南氏」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「南氏」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「南氏」の関連用語

南氏のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



南氏のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの南氏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの南氏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS