南部家文書
主名称: | 南部家文書 |
指定番号: | 90 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1984.06.06(昭和59.06.06) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 古文書 |
ト書: | |
員数: | 243通 |
時代区分: | 鎌倉~江戸 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 南部家文書は、南北朝時代に奥州において南朝方として活躍した南部家に伝来した文書で、中世に伝領した曽我文書を併せ存している。 南部家は、その祖光行が源頼朝に属して奥州征伐に功あり、甲斐国巨摩郡南部郷を与えられたのに始まる。光行の子実長も鎌倉将軍頼経に仕えたが、日蓮に帰依し、身延山の檀越【だんおち】となった。実長の曽孫師行が北畠顕家に属し、陸奥国糠部郡において施政を代行した頃から当家は奥州における地歩を固め、その後八戸へ居を定めた。元和年間に至って、盛岡藩主南部利直の命によって遠野に移り、大正年間まで住した。 この南部家文書は、このように奥州北部において大きな勢力を保持した同家の歴史を反映したもので、すべて未表具のまま伝えられている。今回の指定は、二十代直政(慶長十九年六月二十日卒)の時代までの中世文書を対象としたが、南北朝時代の文書五十七通の中には、北畠顕家・顕信の国宣、御教書等が多数存するほか、南朝方のみでなく、北朝方、北条氏余党などが乱立した奥州の政治情勢を明らかにする文書も豊富である。また、南北朝期に南部家の所有に帰したと伝える曽我文書は、貞応二年(一二二三)八月六日北条義時下知状以下六十六通で、得宗被官であった曽我氏の陸奥における所領の実態などを明らかにして貴重である。 すでに東北地方の文書としては、白河結城家文書を指定したが、南部家文書も奥州北部の中世の歴史を具体的に示して価値が高い。 |
南部家文書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/07 05:20 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動南部家文書(なんぶけもんじょ)は、奥州南部氏に伝えられる文書。
- 八戸(遠野)南部家文書 1984年(昭和59年)に重要文化財の指定を受けた八戸(遠野)南部家文書[1]。
- 三戸(盛岡)南部家文書 盛岡市中央公民館に所蔵されている南部信直以後の文書。
- 1939年 (昭和14年)吉野朝史蹟調査会によって刊行された書籍[2] 。
八戸(遠野)南部家文書
八戸南部氏所伝の文書。慶長19年(1614年)に没した20代八戸直政の時代までの中世文書243通と南部八戸家系図・八戸家伝記・家伝記選用集(1巻・7冊)が、1984年に国の重要文化財に指定された。243通の中世文書は掛軸、巻子等に改装されず、すべて未表具の状態で伝わっており、南北朝時代の奥州の情勢にかかわる貴重な史料を含む。東京都の個人蔵。[3]
三戸(盛岡)南部家文書
中世三戸南部家の家伝伝書は、1539年(天文 8年)本三戸城の炎上のさいに、類焼、多くを失ったとされている。
脚注
- ^ 昭和59年6月6日文部省告示第85号
- ^ 国会図書館サーチ 南部家文書
- ^ 「新指定の文化財」『月刊文化財』249号、第一法規、1984
参考文献
- 青森県史編さん中世部会『青森県史 資料編 中世 1 南部氏関係資料』青森県、2004年3月31日。
関連項目
- 南部家文書のページへのリンク