その他の港
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 13:59 UTC 版)
「カリブ海の海賊 (歴史)」の記事における「その他の港」の解説
イングランドは1707年にバージニアと呼ばれる初期植民地を設立し、1625年には西インド諸島のバルバドス島にも設立したが、この小さな開拓地の住人は地元カリブ族・インディアン(人肉食を行うことで知られた)から設立後しばらくはかなりの危険性に直面していた。これら2つの植民地は定期的に食料を輸入する必要があったが、それ以外にイングランドから主に毛織繊維を輸入した。イングランドへの輸出品は、砂糖、タバコおよび熱帯性の食品だった。このカリブ海の植民地では当初大きなタバコ・プランテーションもなく、またイングランドによる真に組織化された防御も無かった。イングランドがこのカリブ海の島を所有することが如何に貴重なものであるかをロンドンが認識するまでには時間が掛かった。その後奴隷貿易を通じてアフリカ人奴隷が購入された。彼らは植民地で働き、ヨーロッパへのタバコ、米、砂糖の供給を加速させた。1698年までにイングランドは他の帝国主義強国に最大の奴隷輸出国となり、その労働に関して最大の効率を提供していた。バルバドスは西インド諸島でイギリスが真に成功した最初の植民地であり、17世紀の間に急速に成長し、1698年にはジャマイカが奴隷労働者を雇用するイングランド最大の植民地になった。イングランドの船舶は次第にカリブ海における主要母港としてそこを選ぶようになっていった。トリニダード島と同様に、バルバドスを本拠とする大西洋貿易の商人はタバコや砂糖に常に大金を払った。この時代に2つの作物は重要な換金作物であり、アメリカ南部植民地の成長を加速させるとともに、カリブ海にもその効果を波及させた。 フランスはスペインによってカロライン砦が破壊された後、16世紀後半の宗教戦争でカトリックとプロテスタントの宗教的分裂によって攪乱されていたので、数十年間はカリブ海で植民地化の試みを行っていなかった。しかし小さな「テント村」町を拠点とするフランスの私掠船は17世紀初期のバハマで見られた。これら開拓地は、船舶やその乗組員が清水と食料を得る場所に過ぎず、恐らくは地元非戦闘員との関係があるだけで、それは全て高いものについた。 1630年から1654年、オランダ商人はレシフェと呼ばれたブラジルの港を持っていた。当初は1548年にポルトガルが建設した港だった。オランダは1630年にサルバドールやナタルなどポルトガルが支配していたブラジルの砂糖生産都市幾つかに侵略する決断をした。レシフェとオリンダを支配し、レシフェをオランダ領ブラジルの新首都にして、モーリッツスタッドと改名した。この期間、モーリッツスタッドは世界でも最も国際的な都市の1つになった。ポルトガルとは異なり、オランダはユダヤ教を禁止しなかった。アメリカ大陸で最初のユダヤ人町とシナゴーグ、すなわちカハル・ズル・イスラエル・シナゴーグがこの町に設立された。 1654年、オランダが第一次英蘭戦争に巻き込まれたことに乗じて、オランダ領ブラジルの市民が自らオランダを追い出すために戦った。これはパーナンブキャン暴動と呼ばれた。ユダヤ人の大半がアムステルダムに逃れ、他は北アメリカに行って、ニューアムステルダムの最初のユダヤ人社会を作った(現在のニューヨーク市)。オランダはスペインの小さな植民地と密貿易品の交易に時間を費やしていた。17世紀初期のオランダ貿易業者と私掠船にとって、トリニダード島が非公式の母港であり、その後は1620年代と1630年代に独自の植民地を設立した。従前通りトリニダード島のスペイン総督は、オランダ人がその港を使うことを止められず、その代わりに魅力的な賄賂を受け取るのが通常だった。
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