メリーランド憲章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 09:13 UTC 版)
「セシル・カルバート (第2代ボルティモア男爵)」の記事における「メリーランド憲章」の解説
カルバートはイングランド王チャールズ1世からメリーランドの新植民地のための憲章を受けた。そこは、チャールズ1世の妻である王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスにちなんで名付けられるものとしていた。カルバートの父は大西洋岸中部地域に植民地を設立する憲章を長いこと求めており、それをイングランドにいるローマ・カトリック教徒の逃避場とするつもりだったが、憲章が出たのはその父の死から間もない時期だった。当初払い下げられた領域にはチェサピーク湾の西岸を南にポトマック川までと、東海岸(後のデルマーバ半島)の全体が含まれていた。英王室が、バージニア植民地の開拓者達が既に湾を渡って東海岸の南端に入植していたのを認識したとき、払い下げ範囲はポトマック川の河口から東に引かれた線を東海岸部の南端とするように改定された(ただし、現在のデラウェア州は含んでいた)。この修正が行われると、最終的な憲章が1632年6月20日に確認された。この憲章の内容はカルバートの子孫とペンシルベニア植民地創設者のペン家との間で激しく争われることになった。ペン=カルバート境界論争と呼ばれた。 この憲章は法的に国王から土地を賃貸するものであり、それに対してカルバートが支払うものは発見された金と銀の5分の1と、毎年復活祭にウィンザー城にインディアンの矢2本を届けることだった。憲章によってメリーランドは世襲領地となっており、カルバートとその子孫は独立国に等しい権限を与えられ、例えば戦争を行う権利、税金を徴収する権利、植民で貴族制を設立する権利もあった。その権利の解釈に疑問があるとしても、領主に有利になるように解釈された。イングランドにいるバージニア植民地の支持者はその憲章に反対した。彼らは北の植民地と競合することに何の利益も見い出さなかったからだった。カルバートは自ら植民地に行くよりも、イングランドに留まり政治的な脅しをかけていることを選び、植民地には次弟のレナードを代理として送った。カルバート自身がメリーランドを訪れることは一度も無かった。 アメリカ遠征の準備がなされる中で、カルバートはイングランドにあって元バージニア会社のメンバーから1632年憲章を守ることに忙しかった。彼らはメリーランドの新植民地全体を含む最初の憲章を取り戻そうとしていた。メリーランドの一帯はバージニアの一部として表現される領域の中に含まれていた。彼らは長年、別の植民地を創ることを非公式に阻止しようとしていたが、1633年7月、その最初の正式な訴状はロンドンの「海外プランテーション省」(貿易とプランテーションの大臣)で引っかかった。その訴状では、憲章にうたわれているようにメリーランドは真に入植されていなかったのではなく、ウィリアム・クレイボーンが東海岸部の沖合、チェサピーク湾の半ばにあるケント島で交易基地を運営していたと言っていた。さらに憲章はあまりに大まかであり、植民地の臣民の自由を侵すものであるとも言っていた。この時点でメリーランドに住んでいる者はまだ数少なかった。
※この「メリーランド憲章」の解説は、「セシル・カルバート (第2代ボルティモア男爵)」の解説の一部です。
「メリーランド憲章」を含む「セシル・カルバート (第2代ボルティモア男爵)」の記事については、「セシル・カルバート (第2代ボルティモア男爵)」の概要を参照ください。
- メリーランド憲章のページへのリンク