マサチューセッツおよびニューハンプシャー総督
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「ジョセフ・ダドリー」の記事における「マサチューセッツおよびニューハンプシャー総督」の解説
ダドリーは1715年まで総督を務めた。就任したての時期には特に、地方集会(General Court)とはいつも衝突していた。それがダドリーの行政の特徴であり、本国 からの命によって、総督として定額報酬をもらっていた。ダドリーとその後の総督たちは、定額報酬について、植民地の立法府からなかなか譲歩を引き出せず、常に本国の名代と植民地の摩擦の元となっていた。ダドリーは、本国政府への手紙で自らの不満を強調した、それはある人物が「イギリス王室も政府も嫌っており、如何なる臣下の礼も取ろうとしない」というものだった。その当時、植民地の法務長官だった、息子のポールに宛てたある手紙の中ではこう書いている「勅許が無効にならない限り、この国は法律家と紳士が住むには値しない」 この手紙の内容は開示されて出版され、彼の統治に反対する植民地住民を煽った。ダドリーはまた、コットン・マザーに代えて、ジョン・レヴェレットをハーバード大学の総長に任命したことで、勢力のあるマザー一族をも怒らせた。加えて、1689年当時に彼に刃向かった評議会議員と、地方集会の議長の選挙に一貫して拒否権をつきつけ、マサチューセッツ中で不人気を買うことになった。反対に、ニューハンプシャーの総督としての任期の間は好感をもたれた。ニューハンプシャーの立法府は、ダドリーがマサチューセッツの政敵から不満を浴びせられているのを知り、女王の名において特に彼を誉めたたえた。
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