皇帝内乱の時代〜ローマ皇帝へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 13:50 UTC 版)
「ウェスパシアヌス」の記事における「皇帝内乱の時代〜ローマ皇帝へ」の解説
68年にネロが帝位を追われ自殺、時代は内乱期へと突入する。 ガルバ、オトー、ウィテッリウスと皇帝が濫立し相食む状態になる中、ウェスパシアヌスは実力者であったムキアヌスの支持を受け、シリア属州の軍団を味方につけた。そして69年、カイサリアでエジプト属州の軍の支持を、そして続いてユダヤ属州の支持を得た。ムキアヌスはドナウ軍団らにより自身が皇帝に推挙されたがこれを断り、ウェスパシアヌスを擁立し支持した。庶民出のウェスパシアヌスと実力者でありエリート軍人・貴族のムキアヌスは互いに反目することが幾度もあったが、しかしムキアヌスはウェスパシアヌスを推挙し支え続けた。この二者の間をいつも取り持ったのは、性格の良さで知られたウェスパシアヌスの息子ティトゥスだったと伝わる。 当時ローマの皇帝ウィテッリウスはガリア、ラインラントなど(ライン川防衛線)ローマ軍の中で強剛な軍団を支配下に置いていた。ユダヤの抵抗勢力と膠着状態だったウェスパシアヌスは事を急がず、まず帝国の食糧補給の要地であったエジプトを押さえる。そしてモエシア、パンノニア(ドナウ川防衛線)の支持を得て事実上ウィテッリウスに対抗できうる勢力となった。この状態で慎重なウェスパシアヌスはシリア総督ムキアヌスと部下プリムスをイタリアに侵攻させる。ムキアヌスがバルカン半島を北上しつつ抵抗勢力を駆逐している間に、プリムスの率いたドナウ軍団はウィテッリウスの軍を撃破、クレモナを制圧し、軍はローマへ侵入した。元老院はプリムスに執政官の職を与えようとしたが、彼はローマ市内の混乱を制御することができなかった。この時のローマの混乱の最中、ウェスパシアヌスの兄サビヌスは殺されてしまった。数日後にムキアヌスがローマに入城し、この混乱は収まった。ウェスパシアヌスがローマに入るまで、ムキアヌスが神殿の再建を行うなどローマの統治を行った。以降もムキアヌスは何度も執政官に就任し、皇帝の統治を助けた。 いまだ継続していたユダヤの抵抗勢力の制圧のために息子ティトゥスを属州ユダヤに残し、ウェスパシアヌス自身は70年にローマに入り、統率を失ったウィテッリウスの軍隊を立て直した。そして元老院の協力を得て統治を回復。同時期にティトゥスはイェルサレムを陥落させ、内乱は終結した。 「ウェスパシアヌスによる平和」が宣言され、ウェスパシアヌスは正式なローマ皇帝として帝位に就いた。
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