皇帝即位と治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 16:40 UTC 版)
「コンスタンティノス11世パレオロゴス」の記事における「皇帝即位と治世」の解説
1448年に長兄の皇帝ヨハネス8世パレオロゴスが死去した。彼は三度の結婚いずれによっても子供を得られず、次期皇帝は4人の皇弟の中から選ばれる事になった。ヨハネス8世は生前、専制公コンスタンティノスを後継者にすべきであるとの考えを持ちそのようにしようとしたが、これには前述のセオドロス2世パレオロゴスと五弟ディミトリオスが反発し、それぞれ軍事力行使も辞さない構えであったためにコンスタンティノスの皇帝即位は難航した。結果として、コンスタンティノスと彼の弟デメトリオスとの間に後継者争いが起きたが、結局2か月後にはコンスタンティノスが1449年1月6日にモレアス専制公領の首都ミストラスで帝位に即いた。3月にコンスタンティノスはオスマン帝国軍を避けてコンスタンティノープル入りし、スルタン・ムラト2世と平和条約を結んだ。 1451年2月にムラト2世が没し、後を継いだメフメト2世は、当初は友好的な態度を取っていたものの、コンスタンティノスが帝国を維持するためにとったオスマン帝国撹乱作戦(亡命オスマン朝王子オルハンの擁立)に対して怒り、1452年7月にはボスポラス海峡のヨーロッパ側沿岸にルメリ・ヒサール(バルカン城塞)という名の城砦を築き、コンスタンティノポリスの征服を準備しはじめた。 これを受けたコンスタンティノスは、西欧諸国からの援軍を得るため1452年の暮れに東方正教会をローマ・カトリック教会に統合させると宣言した。これは兄ヨハネス8世がフィレンツェ公会議(1439年 - 1445年に開催)で署名した東西教会の合同決議に従ったものであった。しかしこの宣言は国民から猛反発を受け、大臣兼軍司令官のルカス・ノタラス大公に至っては「枢機卿の四角帽を見るくらいなら、スルタンのターバンを見るほうがましだ」と公言してはばからなかった。メフメト2世の現実主義的な性格から、たとえ征服されても信仰の自由は保障されるとの意見も根強かったとされている。結局西欧からの援軍も得られず、コンスタンティノスの最後の外交的努力も国内に亀裂を生んだだけで終わってしまった。
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