皇帝即位前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/23 23:20 UTC 版)
「ミハイル3世シシュマン」の記事における「皇帝即位前」の解説
1280年から1292年の間にヴィディンのデスポト・シシュマンの子として生まれる。母は尊厳公(セヴァストクラトル)ペタルとアセン家出身のブルガリア皇帝イヴァン・アセン2世の娘アンナ・テオドラとの間の娘である。テルテル家出身の皇帝テオドル・スヴェトスラフとゲオルギ2世テルテルは遠戚にあたる。 13世紀中葉からヴィディンとその一帯は強力なブルガリア人領主の統治下でブルガリア帝国から半ば独立した状態になり、ヤコブ・スヴェトスラフ(英語版)(1276年/77年没)、シシュマン、ミハイル3世らがヴィディンを支配していた。シシュマン親子はテオドル・スヴェトスラフからdespotēsの高位を授与され、同時代のヴェネツィアの史料はミハイル3世を「ブルガリアのデスポト、ヴィディンの君主」と呼んでいた。 1292年にミハイル3世の父シシュマンがセルビア王ステファン・ウロシュ2世ミルティンと和約を結んだ後、1298年(1299年)にミハイル3世はウロシュ2世の娘アンナ・ネダと結婚する。 ウロシュ2世の死後、ミハイル3世はブルガリア帝国の首都タルノヴォにおいて積極的に政治活動に参加することができるようになった。間も無くミハイル3世は宮廷の有力貴族の一員に加わり、1323年に若いゲオルギ2世が子を遺さず没すると、ミハイル3世は貴族たちによって皇帝に擁立される。ミハイル3世が皇帝に擁立された理由について、何人かの歴史家たちは彼が貴族たちに擁立されたのはアセン家の血を引いているためであり、貴族たちにアセン家に代わる新たな王朝の創始者を選出する意図は無かったと推測している。 ミハイル3世の皇帝即位後、彼の義兄弟であるベラウルがヴィディンの統治者の地位を継承した。
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