皇帝夫妻の友人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 08:42 UTC 版)
「グリゴリー・ラスプーチン」の記事における「皇帝夫妻の友人」の解説
サンクトペテルブルクに出たラスプーチンは、人々に病気治療を施して信者を増やし「神の人」と称されるようになり、神秘主義に傾倒するミリツァ大公妃とアナスタシア大公妃の姉妹から寵愛を受けるようになり、1905年11月1日に大公妃姉妹の紹介でロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后に謁見した。当時のロシア貴族の間では神秘主義が広く浸透しており、アレクサンドラも神秘主義に傾倒していた。 1906年10月、ニコライ2世の要請を受け、爆弾テロにより負傷したピョートル・ストルイピンの娘の治癒に当たり、1907年4月にはエカテリーナ宮殿に呼び出され、血友病患者であったアレクセイ皇太子の治癒に当たった。医師たちはラスプーチンの能力に懐疑的だったが、彼が祈祷を捧げると、翌日にはアレクセイの発作が治まって症状が改善した。ギラードと歴史家エレーヌ・カレール=ダンコース、ジャーナリストのディアムルド・ジェフリーズは、ラスプーチンの治療法は1899年以降流通したアスピリンの投与による鎮痛治療だったと推測している。 血友病を治癒したことで、ラスプーチンは皇帝夫妻から絶大な信頼を勝ち取り、「我らの友」「聖なる男」と呼ばれるようになったが、多くの人々はラスプーチンをペテン師だと考えていた。侍医のエフゲニー・ボトキンとウラジーミル・デレヴェンコ(英語版)はラスプーチンの能力は催眠術だと信じており彼を皇帝一家から遠ざけようとし、フェリックス・ユスポフはピョートル・バドマエフから入手したチベット・ハーブでアレクセイを薬漬けにしたと考えていた。しかし、ラスプーチンは1913年以前には催眠術に興味を抱いておらず、また、ユスポフの主張も現在では否定されている。 1912年10月9日、皇帝一家はビャウォヴィエジャの森に狩猟に来ていたが、そこでアレクセイの病状が悪化した。皇帝一家はスピア(英語版)に移り治療を行い、アレクサンドラはペテルブルクにいるラスプーチンに助言を求めた。翌10日、ラスプーチンは「小さな子が死ぬことはありません。しかし、私が治療するのを侍医たちが許さないでしょう」と記した手紙を送っている。ラスプーチンの助言通りにアレクセイは死ぬことはなかったが、病状が回復するのは1913年に入ってからだった。
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