皇帝即位前のキャリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:14 UTC 版)
「コンスタンティヌス1世」の記事における「皇帝即位前のキャリア」の解説
テトラルキア体制の成立と共に、西方の副帝にコンスタンティウス・クロルスが指名された(コンスタンティウス1世、副帝在位:293年-305年)。副帝としてコンスタンティウスは目覚ましい活躍を見せ、皇帝を称していたカラウシウスからブーローニュを奪還しアッレクトゥス(英語版)支配下のブリテン島も再征服した。 父のコンスタンティウスが副帝として即位するとともにコンスタンティヌスはディオクレティアヌスの下へと送られ、以降10年余りの間、父親と会うことはなかった。この処置はコンスタンティウスの誠実な行動を保証するための人質としてのものであったであろう。各地の行政機関を監督するために、また外敵の侵入を退けるためにディオクレティアヌスは自分の担当区域を宮廷および軍隊と共に常に移動していた。 コンスタンティヌスはこのディオクレティアヌスの移動する宮廷に随伴して各地を移動した。恐らく292年末から293年初頭にシルミウム(現:セルビア領スレムスカ・ミトロヴィツァ)で合流した後、ディオクレティアヌスと共にバルカン半島各地の都市を回って294年にはディオクレティアヌスの中核拠点であったニコメディアに行って越冬した。295年5月にシリアのダマスカスに移動し、296年にはドミティウス・ドミティアヌス(英語版)の反乱を鎮圧するためにエジプトに進軍して、8ヶ月の包囲の後アレクサンドリアを陥落させた。297年の夏、サーサーン朝の侵攻に対応するため再びシリアに移動し、サーサーン朝との間にそれまでで最も有利な講和を結ぶことに成功した。302年に再びディオクレティアヌスはエジプトに移動した。少なくともコンスタンティヌスはこの302年までには「既に幼少期を過ぎ青年期に入っていた」とされる。この間に彼は軍で実績を積み階級の階段を上っていた。 303年の即位20周年の儀式の際、東の正帝ディオクレティアヌスは退位の意思を明らかにした。彼は西の正帝マクシミアヌスにも同様に退位することを誓約させ、両正帝は305年に揃って退位した。5月1日にニコメディアとメディオラヌム(現:ミラノ)で2皇帝の退位式典と即位式典が同時に行われ、新たな正帝としてコンスタンティウス・クロルスとガレリウスが即位した。コンスタンティヌスはコンスタンティウス・クロルスの息子という出自、またその実績から副帝への即位が予想されており、当初はディオクレティアヌスも実際に血統原理に基づいて将来後継者となるべき副帝にコンスタンティウスの息子コンスタンティヌスと、マクシミアヌスの息子マクセンティウスを任命しようとしたという記録もある(ラクタンティウス)。しかし実際にはフラウィウス・ウァレリウス・セウェルス(セウェルス2世)とマクシミヌス・ダイアという2人のイリュリア人が副帝に選ばれ、コンスタンティヌスはガレリウスの下に留め置かれた。ディオクレティアヌスはテトラルキア体制における複数の皇帝の皇位継承という難題を武力衝突を引き起こすことなく実施することに成功した。 その後、コンスタンティウス・クロルスがコンスタンティヌスを自分の下に呼び寄せた時、もう1人の正帝ガレリウスはこれを拒否した。恐らくこれはガレリウスが、コンスタンティヌスの名声と野心、更にはコンスタンティウスが持つ正帝位の「世襲」を警戒したためであろう。ある伝承によればガレリウスはコンスタンティヌスの死を望みサルマタイとの戦いに派遣していたという。後にコンスタンティヌスの補佐役となるラクタンティウスの記録によれば、コンスタンティウスの度重なる要請に折れたガレリウスはある日コンスタンティヌスの出発を許可したが、その後に自分の決断を後悔しコンスタンティヌスを呼び戻すように命じた。しかしコンスタンティヌスは素早く出発しており、ガレリウスからの追撃を計略を用いて振り切って父の下へ到着したという。 コンスタンティヌスは、カレドニア(現在のスコットランド)のピクト人を討伐すべくブリタンニアに進発するためにブーローニュにいたコンスタンティウスと合流した。この遠征から戻った後、306年7月25日にエボラクム(現:ヨーク)でコンスタンティウスは急死した。ここでコンスタンティウスが持っていた正帝位の継承はガレリウスによって決定されるべきものであったが、ブリタンニアの兵士たちは即座にコンスタンティヌスを新たな正帝として歓呼した。この兵士たちによる皇帝への推戴が自然発生的なものであったのかどうかは不明であるが、複数の史料がコンスタンティヌスがその野心から帝位に昇り、兵士たちに働きかけたことを証言している。
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