マクシミヌス・ダイアとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 政治家 > 統治者・君主 > ローマ皇帝 > マクシミヌス・ダイアの意味・解説 

マクシミヌス・ダイア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/17 04:10 UTC 版)

マクシミヌス・ダイア
Maximinus Daia
ローマ皇帝
(東方正帝)
在位 308年 - 313年

全名 ガイウス・ウァレリウス・ガレリウス・マクシミヌス
(Gaius Valerius Galerius Maximinus)
出生 270年11月20日
ロムリアーナ
死去 313年7月または8月
配偶者 あり(名前不詳)
子女 男子(305年 - 313年)
女子(306年 - 313年)
母親 ガレリウス帝の姉妹
テンプレートを表示
マクシミヌス・ダイアの発行したフォリス銅貨

ガイウス・ウァレリウス・ガレリウス・マクシミヌスGaius Valerius Galerius Maximinus, 270年11月20日 - 313年7月または8月)は、ローマ皇帝(在位:308年 - 313年)。元はダイア(Daia)という名前であった。ガレリウス帝の甥(同帝の姉妹の息子)である。

略歴

出自はダキア属州マケドニア属州と共にイリュリクムに属した)のドナウ川周辺に生まれた農民であった。軍に入隊して優れた殊勲を上げ、305年には母方の伯父ガレリウス帝に引き立てられて副帝の地位を授けられ、シリア属州アエギュプトゥスを支配するようになった。

308年リキニウス帝が正帝となった後、マクシミヌス・ダイアとコンスタンティヌスはどちらも "filii Augustorum"(正帝の息子)を名乗った。そしてマクシミヌスは、310年サーサーン朝との戦役から後は、はっきり正帝として振舞ったと思われる。

311年にガレリウス帝が死去し、マクシミヌス・ダイアはローマ帝国の東側をリキニウス帝と分割することになった。リキニウス帝はコンスタンティヌス帝と連携を始めたので、マクシミヌス・ダイアは副帝を僭称してイタリアを支配するマクセンティウスと陰で連携した。313年にリキニウス帝とはっきり決裂したが、小アジアのヘラクレア・ポンティカ (Heraclea Pontica) 近郊にてツィラッルムの戦い (en) に大敗した(4月30日)結果、ニコメディアを経由してタルススに逃亡し、8月に死亡した。

キリスト教の史料においてマクシミヌス・ダイアは、ガレリウス帝が解除したキリスト教徒の迫害令を再び執行したとのことで悪く記述されているが、客観的な記載ではない可能性がある。

外部リンク





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「マクシミヌス・ダイア」の関連用語

マクシミヌス・ダイアのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



マクシミヌス・ダイアのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのマクシミヌス・ダイア (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS